平成16年8月(2004−8)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 開教・独立までの軌跡
世のため、人のため
 さて時代は、その三国干渉から四年がたった明治三十二年のことです。
 神理教は信者百五十万人という大教団に成長し、経彦は六十五歳を迎えてかくしゃくとしていました。人間本来の信仰を求めて、外教である仏教、キリスト教と烈々の対抗をしてきた神理教でしたが、世の中は移り、教会がここまで大きくなった今、経彦の念じるものは世界平和でした。経彦は徳力山に祭場を設け、この年の七月一日から二十一日まで、昼夜を徹して「世界平和の大祈祷」を行います。いくつになっても、どんな地位に昇っても、安住とはおよそ無縁の人生でした。
 大祈祷に入る前に、若く、将来ある門人たちを集めて、お茶やお菓子を振る舞い、経彦は自分の「世界観」を話して聞かせました。
 経彦は言います。
「まず知るべきは、世界――すなわちこの世は『大いなる一家』であるということだ」
「家族、ということですか?」
 若者の一人が質問します。
「と言うよりも、私たちは個々に独立しているように見えるが、すべて根を同じくする存在であるということだ。例えば、農家は米だけをつくり、漁師は魚だけをとり、裁縫屋は着物だけを縫う。つまり農家は米だけしかつくらないのに、魚を食べることもできれば、着物を着ることもできる。――なぜかな?」
「それは、それぞれが与え合うからです」
「そのとおりだ」
 経彦が言って、
「つまり、私たちは全体の一部分であり、それが集まって、一つの『大いなる家族』をつくっているということになる」
 経彦のこの世界感が、皇国思想の『八紘一宇』と交錯するのは、神道家であれば当然です。ちなみに『八紘一宇』の〈八紘〉とは八方位を言い、〈一宇〉は屋根をさします。世界は天皇を家長とする〈一家〉であるとする思想で、その根底に流れているのは平和主義にほかならず、決して侵略主義ではありません。
 大嘗山の祭殿に篭もり、経彦が唱える「世界平和の大祈祷」の祝詞が徳力山に朗々と響きます。
 祝詞の意味は、
「天神の御心によって、世界統一の総皇帝を立てなければ、世界平和は訪れぬ。願わくば一刻も早く我が天皇様が世界を統一遊ばすように幸い奉りたまえ」
 というものでした。
 経彦も、神理教も、そして日本も、平和のうちに四年を刻んだ明治三十六年、神理教会独立十周年と、経彦の古希(七十歳)を祝う会が盛大に催されることになりました。
 門弟の有志が、『独立十年・教祖古希奉祝会』を組織して開催したものですが、そうそうたる顔ぶれに、神理教の勢いがうかがえます。総裁に正二位・清岡長説子爵、副総裁に従三位・中園実愛子爵、さらに広く天下の諸名士の協賛を得て、三月二十一日から三日間、本院で一大祝宴が張られたのです。全国から数千の教師や門人、さらに数万の信徒が集まり、余興に神楽あり、生け花あり、相撲あり、踊りありで、徳力の里は大都会のごとくにぎわいました。
 また『寄神祇祝』と題して、陸軍大将小松宮彰仁親王殿下はじめ、伏見宮文秀女王殿下、久邇宮篤子女王殿下、そのほか有位有爵の高家や諸大家、歌人などにより数百の歌が寄贈されました。
 神理教、まさに隆々朝日の昇るがごときでした。

 神上がり

 三国干渉の屈辱から、
「臥薪嘗胆」
を合い言葉に戦争準備を進めた九年後の明治三十七年二月八日、朝鮮半島仁川沖の日本海で、ロシア海軍と交戦、二日後の二月十日、宣戦の大詔が下りました。
 宣戦布告です。
 このとき経彦は、
「これ、やがて東洋平和の基にて、皇威の益々揚がらむ事を」
 と、祈念しました。
 東洋の平和のためには、戦争をして日本がロシアを負かすことであるという信念は、愛国者であり平和主義者である経彦の面目躍如でしょう。
 戦争は一年半で終わり、旅順の要塞を陥落させた乃木希典、ロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎、そして陸軍の児玉源太郎ら英雄は、軍神として後世に残ることになります。
 しかし、この日露戦争を境に、経彦の精気は失われていきます。
 きっかけは日露戦争の講和条約でした。
 戦勝国日本は、樺太を日本に割譲することや、賠償金十五億円を支払うことなど十二ヵ条の条件をロシアに提示しました。
 ところがロシア側は、樺太の割譲も賠償金も拒否。結局、紆余曲折を経て、樺太の南半分を割譲させ、賠償金は後払いということで日本政府は妥協してしまったのです。
 これを知ったとき、経彦は、
「なぜだ!」
 と叫びました。
 顔面を蒼白にして、怒りに身体を震わせました。
「勝った日本が、なぜロシアに譲歩するのだ」
 と言うのが経彦の、いや日本の国民感情でした。
 ロシアに勝つことで、東洋平和という大望を期した経彦にしてみれば、この屈辱講和は単に戦利品の多い少ないではなく、別の意味を持っていました。すなわち「世界は一つの家族」とする理想達成の挫折でした。
 このときの心境を、経彦はこんなふうに書き残しています。文語体を通して、経彦の無念さが沸々と通じてきますが、それにもまして、よもやここまで経彦が愛国の情を抱いて日々精進していたとは、だれが想像したでしょうか。
 原文を記しておきます。
〈我が戦勝国に対する彼の敗戦国の無礼さは何事ぞや。嗚呼、大元帥陛下の大御心を推し量り奉れば、我々布衣の者と雖も肝脳地にまみれ、九腸焼くが如くである。いわんや屍を馬革に包みて満州の荒野に晒したる幾万の兵士の分霊を如何にせん。我、数十年間一日の如く百折千磨、あらゆる辛酸をなめて書を著し、舌をただらして師弟を養成し、教えを布かむは、只々、我が天皇を世界に仰ぎ奉らせんとするに外ならず。この一大事たるや、即今に記する処にあらず。自ずから天の時あるべけれども、物事は天の時、地の理に人の力を加えざるべからず。しかるを、この度の講和条約は何事ぞ。我、今死すとも、魂気は天駆けり地駆けり、諸人をして真理を悟らしめて、我が本志を達せざれば止まざらむ〉
 経彦の目指した人生は、まさに全知全能、全人格、全人生を全うする「神の使者」でした。
 その大望が、いま挫折しようとしています。
 経彦の悲憤慷慨ぶりは尋常ではなく、何十年というもの、一日たりとも離すことのなかった筆さえ執ろうとしなくなりました。壮健であった心身も、これを境に顔色が優れなくなり、床に伏せることが多くなりました。
 心配して枕もとに控える妻の集義子や、伊豆彦、高嶺に向かって、
「我は、もはや長くはここに居らぬぞ、眠るぞ」
 と、何度となく、うわごとのようにつぶやくのでした。
 ――明治三十九年十月十六日午前十時。
 門人七千人、慕い奉る信徒百五十余万人を残して、経彦は天地之祖神の御許である「日の大御国」に神上がりになりました。
 送り名は『天津神理誠之道知部経彦之命』
 天保五年二月十六日にこの世に生を授かり、明治三十九年十月十六日に逝くまでの七十三年間、佐野経彦は著書二百六十部千三百冊、御歌二万余首を人の誠の道しるべとして遺したのでした。
      
              (完)