平成16年7月(2004−7)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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開教・独立までの軌跡


日清戦争勃発

「教長さま! 日本艦隊が清国艦隊を撃破しました!」
 号外のチラシを手に握りしめて、若い門人の幸太郎が息せき切って駆け込んできました。
 小倉でまかれた号外を、二里(八キロ)離れた徳力の本院まで、真夏の街道を持って帰ってきたわけです。ビラは汗でにじみ、シワになっているのは一生懸命に走ったためでしょう。
 経彦は弾かれたように立ち上がると、顔いっぱいに嬉しそうな表情を浮かべ、
「ご苦労さん」
 と労をねぎらいながら、号外を両手で広げると、食い入るように読みました。
 明治二十七年七月二十五日、豊島沖で日清両国の艦隊が遭遇。日本側に戦闘の意志はありませんでしたが、清国が発砲したため海戦となったもので、清国の『済遠』と『広乙』は破損して逃走、『操江』は日本艦『秋津州』に捕獲され、さらに清国の輸送船は日本艦『浪速』に停戦を命じられています。余談になりますが、この『浪速』の艦長が、のちの元師となる東郷平八郎大佐でした。
 さて、この大勝利の号外にわく本院のなかで、
「教長さま、これから日本と清国とはどうなるんでしょうか?」
 と、幸太郎が質問しました。
 だれもが知りたかったことで、一同は静まって経彦の言葉を待ちました。
「開戦、必至なり」
 と、経彦は短く答えました。
「勝てますか?」
 相手は大国の清です。
 だれしもが心配でした。
「勝てる。安心せよ」
 と言うと、経彦は神前に座って、「敵国降伏の祈祷」を始めたのです。
 日本の清国に対する宣戦布告によって戦争が始まるのは、この日からちょうど一週間後の八月一日のことでした。
 これまで清国と日本は、お互いの権益をめぐり、朝鮮半島をはさんで絶えず摩擦を起こしていましたが、戦争の直接の引き金は、朝鮮半島で起こった東学党の乱を鎮圧するため、清国が韓国政府の要請を受けて軍隊を派遣したことによります。この軍隊の派遣要請はきわめて政治的なもので、日本政府としては黙って見過ごすわけにはいかなかったのです。豊島沖の海戦は、このように緊迫した状況のなかで偶発的に起こったものでした。
 経彦の祈祷は、
「皇軍の大勝と平和克復」
 でした。
 平和克復というのは、「戦に勝って、平和なときの状態をとりもどすこと」の意味で、経彦の巡教活動は、日清戦争が始まってからとくに盛んになって、多数の信者たちを前に、「皇威国光を宣揚するは此のときなり。天祐ある皇軍、天祐ある神兵に日本魂の何たるかを悟らしむるは此のときなり」
 と、人々に訴えました。
 戦争の善悪を論じる以前に、経彦は日本を「是」、清を「非」としました。
 理屈ではありません。
 祖国愛です。
 経彦は、宗教家である以前に「愛国者」でした。いえ、愛国者であるがゆえに神理教を興し、キリスト教に対抗し、日本の、そして日本人のなんたるかを説いたのでした。「しかし、教長さま」
 と門人の幸太郎が質問しました。
「日本の勝利祈祷はもちろん大切ですが、宗教家としてとるべき態度は、戦争そのものへの反対ではないでしょうか」
 真面目な幸太郎らしい質問でした。
「そのとおりだ。戦争が罪悪であることは言を待たない」
 と経彦は語り始めました。
「戦争が、人間のもっとも愚かな行為であることは万人が認めることだ。私もそう思う。だが人類が誕生した太古の昔から、人間はこの愚かな戦争を延々と繰り返してきた。罪悪であると万人が認めてなお戦争がなくならないのは、これはもう人間の〈業〉としかいいようがあるまい」
 そして、戦争をなくして平和な世の中にするには、天神の御心によって天皇が世界を統一するしか方法はない、と説くのでした。
 大東亜戦争に負けて以後、天皇制について種々論議がありますが、世界に比類なき文化と繁栄を誇る今日の日本は、天皇制の歴史を抜きにして語れないことだけは確かです。大東亜戦争が「天皇の名」において遂行されたため、その責任を天皇が負うべきとの論議もときおり蒸し返されます。しかし、世界史を見るなら、十字軍は「キリスト教の名」において侵略し、アメリカは「自由主義防衛の名」においてベトナムに宣戦布告しました。ソ連はアフガニスタンへ、イラクはクウェートへと、それぞれ
「主義、主張、思想の名」において侵略しました。
 すなわち『錦の御旗』は、それを担いだ側が結果において責任を問われるべきで、
『錦の御旗』自体に責任はありません――。経彦の教えを汲み取るなら、そういうことになるでしょうか。
 翌年春、経彦は広島の大本営を起点に、伊勢神宮、尾張の熱田神宮に参拝をすませてから上京、さらに下総、常陸、陸前、陸中、陸奥を経て越後に入り、越前をめぐって近江、山城、摂津、播磨、備前、備後、備中、安芸、周防、長門の諸国を経て、七月七日の七夕の日に徳力の本院に帰りました。四ヵ月、二十ヵ国に及ぶ巡教でした。

世界平和の大祈祷

 日清戦争の講和条約は、日本側全権大使が伊藤博文、陸奥宗光、清国側は李鴻章を全権大使として調印されました。
 これが下関条約と呼ばれるもので、主な内容は、
一、朝鮮独立の承認。
二、遼東半島・台湾・澎湖島の日本への割譲(土地の一部分を譲ること)。
三、賠償金二億両(約三億六千万円)の日本への支払い。
 以上の三点でした。
 注目したいのは、遼東半島の割譲によって大陸への足がかりをつかんだことです。
 ところが、東アジアへ南下政策をとっていたロシアと、日本の中国進出を警戒するドイツ、フランスとが手を結び、日本に対して遼東半島を清国に返還するよう圧力をかけてきました。
 これが三国干渉です。
 国力からして、日本は三国を相手に戦う自信はなく、要求を呑んで遼東半島を返しました。
 これによって日本とロシアの対立は深まり、
「臥薪嘗胆(屈辱をはらすために苦労し辛抱すること)」
 を合い言葉に戦争準備を進めます。
 これが九年後、明治三十七年の日露戦争となるのでした。