平成16年6月(2004−6)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 翌明治二十二年二月、大日本帝国憲法が発布され、日本は近代国家として新たな幕を開けました。この年、東京朝日新聞、大阪毎日新聞が相次いで創刊され、東海道全線が開通。そして翌二十三年には、第一回衆議院議員選挙が行われ、帝国議会が開会されます。
 一方、経済界にあっては、官民一体となった富国強兵策のもとで、三井、三菱、古河など、政府と特別なつながりを持つ政商たちが、着々と地歩を固めつつありました。
 日本は動いていました。
 予想していた以上に、その動きは急でした。
 振り返れば、二十余年前の明治維新。日本は国民をあげて西洋を恐れ、あこがれ、西洋のすべてを「善」として受け入れ、それまでタブーであった牛肉をさえ食すべし――と新聞は書きました。
 それがいま、急ピッチの近代化政策によって、西洋は「あこがれ」から「目標」へと変わりつつあったのです。朝鮮出兵に続く日清戦争は、これより四年後の明治二十七年に勃発するのですが、明治中期の日本は、資本主義経済発展の必然として、「守勢」から「攻め」に転じた時期でもありました。
 こうした社会背景のなかで、「皇国」と「日本人」を象徴する神道が勢力を盛り返していくのは当然だったでしょう。なかでも、佐野経彦率いる神理教の宣教はすさまじいものがありました。御嶽教に転じ、神道本局という足かせがとれた神理教は、解き放たれた奔馬(勢いよく走る馬)でした。多くの門人たちが九州、中国、四国へと先を競うようにして宣教に散って行ったのです。
 この時の様子を、神理教大教正、藤江伊佐彦は、
〈多くの門人どもは檻を出たる虎の如く、各自の長所を剣戟となし、一枚風呂敷に幾十万発の教弾を包み、神理無敵の旗をおし立てて九州・中国・四国に手分けして、外教征服に出陣し……〉
 と書き残しています。
 神理教の進出によって、一村全部が改宗するなど、神理教の名が全国に轟くのは、このころのことでした。

 乗り込んで来た僧侶たち

 神理教の攻勢に、仏教界は手をこまねいていたわけではありません。
 ことに若手の間では、
「神理教、なにするものぞ」
 の気持ちはありました。
 腕力ではありません。
 言い負かしてやろうというのです。
 そんな若き僧侶たちが、五人連れで本院にやってきました。肩で風を切るように、大股でやってきました。一様に硬い表情をしています。広島では、信者の取り合いをめぐって、神道と仏教の間で暴力事件にまで発展しています。それほど両者は険悪な関係にあったのです。
 五人は坊主頭だけに、異様な迫力です。
 受付の若い女性信者は緊張しました。
 先頭のがっしりとした僧侶が、
「管長猊下(高層の敬称)に面会したい」
 と、甲高い声で言いました。
「少々お待ちください」
 と言って、奥に走り、
「どうしたらいいでしょうか」
 と、おろおろする彼女に、のち大教正となる藤江伊佐彦が、
「私が会おう」
 と、これも険しい顔で言いました。
 五人連れは、後でわかったところによると、仏教大学や、帝国大学を卒業したエリートたちでした。
「何用か知らないが、私が承る」
 と藤江が応対すると、
「いや、我々はぜひ、猊下に謁見を賜りたいのだ」
 と譲りません。
「教長はいま取り込んでおられる」
 藤江がムッとして言うと、僧侶たちは口々に
「ならば待つまで」
「五年でも十年でも待たせてもらおう」
「よもや、裏口から裸足で逃げ出したなんてことはありますまいな」
 と言って嘲笑しました。
「言葉を慎みたまえ!」
 一喝すると、
「ならば猊下に取り次いでもらいたい」
 押し問答です。
 騒ぎを聞きつけて、信者たちが本院に集まりだしました。血走った目の屈強な男性信者もいます。世が世だけに、このままでは収拾がつかなくなる恐れがありました。本院で流血沙汰など、許されぬことです。
「ちょっと待ってなさい」
 と藤江は告げて、奥にひっこみました。
 藤江から事情を聞いた経彦は、
「通しなさい」
 と、こともなげに、まるで近所の子供を招くように言いました。
「しかし、教長さま。よもやと思いますが、もし連中が狼藉を働いて、万一、教長さまの身に危害があっても困ります。お断わりになったほうがよろしいかと」
「構わんよ。私の命でよければ、くれてやるさ」
 と笑いました。
 藤江は険しい顔で僧侶たちを二階の次の間に案内しました。
 僧侶たちはわざと足音を響かせて階段を上がり、つまらぬ冗談を言って声高に笑ってみせました。
 藤江は彼らを部屋に通すと、襖を閉め、隣の部屋で待機しました。脇差しを抱いています。ことと次第によっては命を張る覚悟で、聞き耳を立てました。
「やあ、ようこそ」
 経彦が入ってきました。
 まるで旧知の友を迎えるように、ニッコリ笑いながら、
「よく来てくれた」
 と五人をやさしく見回しました。
 まるで祖父と孫です。
 経彦はニコライ神父に論戦を挑んだ若き日の自分を思い出していたのかもしれません。若者には前途があります。そして日本は、彼らの前途が支えるのです。いまは仏教の僧侶であっても、明日はわかりません。その柔軟さが若者の特権でもありました。
 五人は、経彦のあまりに無邪気な態度に戸惑っていました。いや、呑まれてしまっていたと言ったほうがいいかもしれません。
 言葉が出ないのです。
「みんな」
 と、経彦が笑みを浮かべたままで、
「学問はちゃんとやっているかな?何教であっても構わないから、いまのうちに、うんと学問をなさらんといけないぞ。万巻の書物を読破し、万人に教えをこうて、立派な人になって、ひとつ日本を頼みますぞ」
 やさしく諭すように言うのでした。
 これが人間の貫禄と言うのでしょう。
 それまで偉そうにしていた五人が、まるで見えない手で頭を押さえつけられでもしたかのように平伏して、一言の言葉も出ないのです。
 隣室の藤江は、彼らの声が聞こえないのを訝って、そっと襖を細く開けてのぞき見て、平伏している彼らの姿に、ただ唖然とするばかりでした。
「さあ、さっ、手をあげてくださらんか」
 と経彦にうながされ、顔を上げた五人は、
「今日は猊下の高風を拝することを得まして、この上の光栄はございません」
 と、恐れかしこまりました。
 彼らはそれから十五分ほど経彦と歓談して帰って行きましたが、玄関まで見送りに出た藤江に向かって、
「ありがとうございました。今日は畔上尊師に謁見させていただいたような心地でした。やはり偉人の風格態度は、別なものでございます。」
 と告げて帰って行きました。
 畔上尊師は、近代の生仏と言われる仏門の偉人です。経彦をそれになぞらえたのです。にくい敵の、それも血気盛んな若者五人が、論破すべく乗り込んで来て、たちまち呑まれ、自分たちが無上と信じる偉人にたとえるとは、
(教長さまの偉大さとは、とても私ごときには計り知れないものだ)
 と、改めて感服したのでした。
 まもなく神理教は、分教会五十、信徒五十万を誇る大教会になります。
 二十四年、経彦は帝国議会に対し、九九○名の信徒総代と連署で神理教会の独立を請願する一方、翌二十五年には内務省に〈独立願い〉を提出しました。
 一派独立は、この年にもなされる雰囲気でしたが、独立に好意的であった副島種臣内務大臣が同年六月八日に辞職したため、不調に終わっています。
 こうした紆余曲折を経て、神理教会に一派独立が許可されるのは、さらに二年が過ぎた明治二十七年十月十九日のことでした。
 経彦が初代管長に就任します。
「大日本天皇陛下を、神理天則のままに地球の大主宰と定め奉り、世界平和の実現を期してこの世を救い、人類の多年の迷いを払い、人類を天地之祖神の御膝下に導き、生死無二の大安楽を与うべき真の神の道を確立する」
 独立に際して、経彦は高らかに宣言しました。
 振り返れば明治九年十月十六日早朝、ご神拝する経彦の面前に天在諸神が次々と現れ、「汝経彦、神に代わって誠を明らかにせよ」
 と、お告げがあって十八年の歳月が流れていました。
 佐野経彦――すなわち饒速日命七十七代、還暦でした。