平成16年4月(2004−4)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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  門司は、古くは海陸交通の要地として栄えた土地でした。しかし、近世以降は対岸の赤間関(下関)が海港として栄え、また本州へは大里、小倉、黒崎から渡るようになったため、当時は戸数わずかに三百五、人口千三十五人という一寒村で、文字ヶ関村というのが、その名前でした。
 その文字ヶ関村を北九州の玄関にしようというのです。
 築港――その発想は、宗教家の器をはるかに超えたスケールでした。
「しかし、経彦さん――」 
 と、高山は心配を口にしました。
「築港となると、大事業だよ。莫大な資金がかかるし、はたして何年かかるやら……。そんなことに関わりあっていたのでは、神理教の一派独立など不可能だ。いまがいちばん大事なときじゃないのか?」
 財力もなければ専門知識も持たない一宗教家が築港しようというのです。世間が聞いたら、ホラ吹きとあざ笑うでしょう。高山の心配はもっともでした。
 しかし経彦は、
「布教は私にとって生涯のもの。しかし門司の築港は、いまを逃すと永遠にチャンスはめぐってこないでしょう。港があれば国道も鉄道も敷かれるだろう。このままでは門司は北九州の一寒村のまま繁栄から取り残されてしまいます」
 国家をあげて工業化に取り組み始めたいまこそ、またとない好機である――と経彦は主張するのです。
(どうしても、やる気だな)
 言い出したら絶対に後へ引かない男です。
 高山も覚悟を決めました。
 覚悟を決めたら、高山もすぐに行動を起こします。
「これだけの話を相談できるのは、豊永さんしかいないな」
「豊永さんだったら!」
 経彦も声を弾ませました。
 豊永長吉は、山口県の長府市に住む実業家で、高山の妻の弟が婿養子に入っていました。
「だが、いまの話では漠然とし過ぎているから、もう少し話を詰めてからのほうがいいかもしれんな」
 高山の提案で、門司の地質調査を専門家に委託し、構築の図面を引かせた夏、経彦と高山は、期待と不安を胸に長府市の豊永長吉を訪ねました。

 住民の同意集めに奔走

 さすが近隣に聞こえた実業家の邸宅でした。高山がいなかったら、玄関を探して、ぐるりと塀を一周したでしょう。そんな豪邸でした。
 豊永長吉は威勢のいい人物でした。還暦を過ぎていると聞いていましたが、恰幅のよさと波打つ黒い頭髪、そして赤味のさした血色のよさは五十代にしか見えません。
「それで豊永さん、これが私どもの事業計画ですが…」
 と、経彦が図面を広げるより早く、
「やりましょう」
 豊永は、ふたつ返事で引き受けたのでした。
 これには経彦も高山も呆気にとられましたが、それは二人が事業にはシロウトだったからです。門司の築港――と聞いただけで、豊永の脳裡には賑わう門司港の姿が浮かんでいました。豊永もまた修羅場をくぐってきた実業家です。重工業を中心とした近代産業の育成は明治政府の急務であり、筑豊炭田を背後に抱えた門司港は文字どおり九州の表玄関になる――と瞬時にそろばんを弾いていました。
「費用は私のほうで用立てましょう。佐野先生と高山さんには、地元住民の承諾書をお願いしたい」
「かしこまりました」
「ただし」
 と、豊永はクギを刺すように、
「住民の――埋立予定地内のすべての人の承諾書が必要です。いいですか、全員ですよ、たった一人欠けてもだめです」
 と、二度、繰り返しました。
 当時は国民の権利意識は低く、また現代のように環境問題などで開発に手こずることはありませんでしたが、逆に住民の土地や漁業権に対する盲目的な執着は、当時のほうが強かったのです。それだけに用地買収、埋立の承諾は難題で、豊永が経彦を見込んだのは、宗教家として人望があったことはもちろんですが、それよりも、
(彼の誠意ある説得なら、住民も納得してくれるだろう)
 という実業家の人物眼でした。経彦と高山は文字ヶ関村に腰を据え、一軒一軒訪ねて回りました。戸数三百五とはいえ、いざ承諾書を取るとなると、簡単にはいきませんでした。
 経彦と高山が、構築によって門司港が発展すれば地域が豊かになることを膝詰めで丁寧に説き聞かせるのですが、
「海を埋めるだとォ? 冗談いうなィ。この海は、先祖代々、オレたちが守ってきたんだ。埋立てなんかしたら、漁業ができなくなるじゃないか」
 と取り合ってくれませんでした。
 これまで、のんきに魚を獲って暮らしてきた漁村なのです。地域の振興が住民の利益に還元されるという発想は、持てというほうが無理で、特に塩田の扱いが大変でした。
「経彦さん、これじゃどうにもならん」
 と弱音を吐く高山に、
「巡教百度、鬼神にも通じる、ですよ。一度でだめなら十回でも百回でも、いや千回でも万回でも説得を続けるだけです。あきらめないかぎり、失敗はないのですから」
 と励ますのでした。

 策 謀

 一方、徳力の神理教会です。
 すでに神道系八教派が独立を許されている以上、神理教の信者としては、一日も早い独立を願っていました。そのためには、教長の経彦が上京し、皇室や政府への働きかけが必要だというのに、文字ヶ関村に義兄の高山定雅と腰を落ち着けたまま、家々を頭を下げながら回っています。
 門司港が構築されれば、企救郡は経済的にもうるおい、それは住民を豊かにしてくれるでしょう。また国家的見地からも、筑豊の石炭積載港の築港は急務です。そのことは信者たちにもよくわかります。しかしそれは宗教家がやることではなく、県や国の行政の仕事ではないのか――というのが、信者たちの素直な気持ちでした。
 宗教家の粋を超え、国家、地域、住民のために奔走する教長のまじめでひたむきな姿を、信者は誇らしく思う一方、
「門司港と神理教と、どっちが大切なんですか」
 という思いも拭い難く、信者もまた焦りといらだちの日々を過ごすことになります。
 経彦と高山が、計画地のすべて――四万五千二百五十一坪すべての承諾書をもらうことに成功するのは、この年の晩秋でした。
 経彦と高山は、承諾書に計画書を添え、門司地区の『海面埋立願い書』を福岡県知事・安場保和に提出すべく準備を整えてから、久しぶり湯船に手を伸ばし、湯上がりに美酒を酌み交わしつつ、お互いの労をねぎらいました。
 妙な動きは、それから数日後、『海面埋立願い書』を知事に提出する直前になって起こりました。
 企救郡長である津田維寧が、
「知事宛の書類と同じものを郡にも提出せよ」
 と言ってきたのです。
(おかしいな、これは県庁の仕事なのに、どうして郡に提出する必要があるのだろう)
 と経彦は疑わしく思いました。
 高山も首をかしげながら、
「しかし行政上、地元の郡も知っておく必要があるんじゃないかな」
「それもそうですね。どうせ県へだせば、内容は公になるんですから」
 深く考えもせず、言われるまま経彦は郡に書類を提出したのでした。
 何か理由があるからこそ、津田郡長は書類を要求してきたのです。それを確かめもせず書類を提出した経彦を、責めることはできないでしょう。経彦は宗教家であって、事業家ではありませんでした。
 経彦は知りませんでしたが、門司築港とは関係なく、門司を起点とする九州鉄道(現JRの鹿児島本線)の敷設が計画されていたのです。そこに門司港が開港すれば、発展は約束されたも同然です。立場上、鉄道敷設計画を知っていた津田郡長は、だから経彦に書類を要求したのでした。
 門司築港の計画書に眼を通した津田郡長は、
(これは儲かる)
 と小躍りしました。
 書類は完璧であり、なにより構築の同意書がすべて揃っていることに、津田郡長は舌をまく思いでした。
 一説には、津田郡長がひと儲けをたくらみ、安場保和知事を抱き込んで構築の許可を出させないよう工作したと言われますが、真偽は定かではありません。
 ただ言えることは、許可を急ぐ経彦と高山に対して、安場知事は、
「陸・海軍が埋め立てに反対している以上、許可はだせない」
 と、頑として取り合わなかったのです。
 そして不思議なことに、資金を担当する長府市の豊永長吉は、なぜか沈黙したままでした。政治家を動かすなりして認可を急がせるはずだし、それだけの力はありました。それなのに、動こうとはしません。経彦の手紙に返事はありませんでした。
 経彦は豊永の沈黙が気にかかりながらも、許可願いを出した時点で、作業は一段落です。許可のおりる日を心待ちする一方、神理教の独立請願に上京するなど、宗教家として多忙な日々を送っていました。
 それから一年がたち、二年がたちました。
 許可は一向におりる気配はありません。
 軍部が反対しているのならやむを得ないと、経彦があきらめかけていた矢先のことです。
「経彦さん、許可が、構築(埋築)の許可がおりるらしいぞ!」
 高山が息せき切って駆けつけてきて、叫びました。
「本当ですか!」
「ああ、県庁の役人から聞いたんだから間違いない」
「そいつはいい!」
 神理教の独立問題は、いましばらく時間がかかるとしても、これまでの苦労がやっと報われると、経彦は高山と手を取り合って喜びました。
 ところが――。
 明治二十一年七月四日「庶第九百十四号、願ノ趣難聞届候事」と不許可の指令がおりたのです。
 そして明治二十一年十一月になって、なんとその許可は、経彦と高山ではなく、まったく別の第三者におりたのです。
「バカな!」
 怒りに身体を震わせながら抗議する経彦に、県庁の役人は、
「これは県で厳正に審査した結果です」
 と、判で押した答えが返ってくるばかりでした。
 そして翌、明治二十二年七月に門司築港株式会社が設立され、さらに二年後の二十四年、九州鉄道株式会社が門司に本社を置き、開業するのです。
 門司築港と九州鉄道の開通――。
 その裏にどんな利権の構造が隠されていたかはわかりませんが、門司築港株式会社には、渋沢栄一、大倉喜八郎、安田善次郎、浅野総一朗といった中央財閥の錚々たる顔ぶれが大口出資者として名をつらねているところから、まさに国家的プロジェクトでした。そして、設立委員の中に、経彦と高山に資金を提供してくれる約束になっていた豊永長吉の名前を見つけたとき、経彦は、官民一体となって利権をむさぼる巨大な暗部を見せつけられたような思いに震えおののくのでした。
〈怪の怪なり〉――経彦が東陽日誌に記した言葉です。
 門司は急速に発展を遂げ始めます。とくに日清戦争(明治二十七年)後は、背後に控える北九州工業地帯の発達とともに、大陸貿易基地として、長崎、下関をはるかにしのぐ発展を遂げていきます。人口わずか千三百五人の文字ヶ関村は、やがて三十七万人の大都市へ変貌していくのでした。
 その立役者こそ、佐野経彦なのです。
 明治三十二年三月、門司築港株式会社が築港工事竣工を記念して、経彦と高山に銀杯と金参百円を添え感謝状を贈呈したことが、なによりそれを物語っているでしょう。
 一時は県庁の責任を問う行政訴訟まで考えた経彦でしたが、築港は企救郡を発展させることが目的であり、それが達成された以上、もはや自分の役目は終わったとして思いとどまりました。行政訴訟といえば、築港の出願の権利を壱万円で売ってくれと言ってきた博多の商人がいましたが、それも断りました。
 いや、そんなことに関わっている暇はなかったのです。経彦には宗教家として、神理教の教長として、なすべきことは山ほどありました。