平成16年3月(2004−3)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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開教・独立までの軌跡



 経彦は立ち上がって、静かに言いました。
「大教主、おっしゃるとおり、日本人は愚かです。日本に住みながら、西洋人の猿マネをして日本人とは呼べない人物もいます。学者と称しながら、学者とは言えない人もいます」
 ニコライ神父はまっすぐ経彦を見つめて、次の言葉を待ちました。
 経彦が、言葉を続けます。

「大教主はロシアの帝王に依頼され、日本に渡来して数十年におなりですが、道は一貫している。日本人をご自分の宗派に引き入れようとなさるのは、それは愛国心の発露であります。大教主が一生懸命に教えを説けば、それを見て日本の愚か者ども、きっと愛国心を起こすに違いありません」
 ニコライは微笑んで言いました。

「アナタの魂は素晴らしい。この道にお入りなさい。日本に宗教もなければ、人もいないのデスから」
 と勧めました。
「私は大教主に一言申し上げます。成るものは成る、敗れるものは敗れます。人のつくったものは滅び、天は栄える。人間は何を頼りとするのか、何を否定するのか――。私たちの使命は、天の創った神の道を広げ、間違った道を撲滅し、世界の億兆の人々を助ける心をもって臨むことではないでしょうか。

 大教主が愛国心をもって私をこの道に入れようとすることには、大いに感じ入るところがあります。しかし、私も天の道を広げようとする人間です。大教主がどのように広げようとなさっているのかわかりませんが、日本では成るものは成り、成らないものは成らないということがあることを知っていただきたい。我々に愛国心がないと思わないで欲しいのです」
 と告げたのでした。
「佐野先生」
 ニコライ神父は手を差し出しました。
「大教主」
 経彦もその手を握り返して、
「お願いがあります」
「お金ならアリマス」
 ニコライ神父が笑って片目をつむりました。

「お金ではありません。私はこれから、私の教えを万国に布教し、神理を広めます。大教主は、私と面識があるからといって、許すことなく、力一杯私を倒そうとして欲しいのです。ただし――銃弾や、剣ではなく、あくまでも大教主の舌鉾をもって」
 と言って、経彦は笑いました。

 仏教が伝来した千五百年の昔から、明治維新における開国、大東亜戦争の敗戦による欧米文化の流入など、日本人はカルチャーショックに見舞われる度に、先進の文明を無条件に受け入れ、追従し、猿マネを繰り返してきました。

 文明が、高いところから低いところに流れるものであるとするなら、それはやむを得ないことだとしても、文明の進んだ国には優れた宗教があるに違いないと思い込み、無批判に飛びついてきたことは許されるでしょうか。

 例えば、荒々しくすさんで人間を疎外する先進国の人々と、コンピュータとは無縁ながら、人情の機微に支えられながら生活を営んでいる発展途上国の人々とでは、どっちが宗教として素晴らしいものを持っているでしょうか。文明の進歩が、必ずしも宗教の素晴らしさを約束しないことは、歴史と現実が何より証明しています。

 では、今日の日本はどうでしょう。優れた宗教を実践しているかどうか――。この問いかけこそ、時世を超え、経彦が血を吐く思いで問いかけ続けたことではなかったでしょうか。
 聖堂を辞した経彦は、前方を見据えたまま、駿河台の坂をただ黙々と下って行くのでした。

第三章

 独立十三派


 神道は近世まで、「教団」として存在したことはありません。祈願をしたり、初詣でに行ったり、あるいは地鎮祭や結婚式などの宗教的儀式を司るものとして機能しました。組織体として信者を積極的に獲得しようとするわけでもなく、いわば〈待ちの宗教〉と言っていいでしょう。
 これに対して仏教は、教義を定め、宗派の描く理想世界の実現のため、信者を積極的に獲得しようとする〈攻めの宗教〉と言うことができます。
 仏教の歴史を見てみると、弘法大師や日蓮、親鸞などが布教のために壮絶な行脚(各地を巡り歩くこと)を行っているのに対して、神道にはそれがありません。
だから神道家は、僧侶に比べておっとりして見える――というのは、もちろん偏見ですが、あながち根拠のないことではないのかもしれません。

 神道が〈待ちの宗教〉から脱却していくのは、明治維新が引き金となります。時代の演出によって、近代天皇制の理論的根拠として歴史の表舞台に登場させられた神道は、「国の宗教」として、台頭するキリスト教に対抗する使命を負わされました。

天皇を「神の子孫」と説く神道であれば、それは当然のことであり、皇国思想がなければ明治維新もまた存在し得なかったでしょう。

 ここに、〈待ちの宗教〉であり手段も組織も持たなかった神道が、キリスト教に対抗するため否応なく宣教への道を模索し始めるのですが、この過程で生じたのが佐野経彦たちの「教派神道」です。

 教派神道は、前にも紹介したように十三派があり、明治政府の宗教行政の産物として一派独立が順次公認されていきます。まず明治九年に黒住教、神道修成派、十五年に神宮教、出雲大社、扶桑教、神道大成教、神習教、御嶽教、二十七年に神理教、禊教、そして三十三年に金光教、四十一年に天理教となっています。

 神道には統一理論がないとするのは、他の宗教による神道批判の常識的なやり方ですが、
「古神道をしっかりとさぐれば、理論は存在し、見えてくる」
 というのが、佐野経彦――すなわち神理教の立場でした。
 され、経彦がロシア正教会のニコライ大教主と論争して、お互い意気に感じて、別れた明治十七年は、神道に一大転機をもたらした年でした。太政官布達によって「教導職」が廃止されたのです。
 これが意味するところを、一言で言えば、
「国が、神道を広める運動に直接手を貸すのをやめた」
 ということです。

 経彦が明治十四年秋、京都を経由して上京した際、弟子たちの教導職試補の認可をもらうため神道事務局に談判していますが、いま思えば、このころからすでに教導職廃止の方向で事態が動いていたことがよくわかります。先に十三派が、明治政府の宗教行政の産物と言ったのは、そういうことをさします。

 教導職廃止の主な理由は、神道だけが国家から保護されていることに対して、仏教界から反発が起きてきたこと、キリスト教布教が公認の方向になり、キリスト教の防止のためにつくられた教導職の意味が薄れてきたことなどがあげられます。
 そして、神道普及から手を引くに当たって、政府は、
「すでに教会を認可されていながら所属教派が決まっていないものは、自由にその所属教派を選択してよろしい」
 と、内務省寺社局より口頭示達を出したのでした。
 経彦の神理教にとって、独立のチャンスでした。

 すでに八派が独立を許されているのです。
 経彦ははやる気持ちをおさえ、すぐさま神道事務局の次期管長の筆頭候補である稲葉正邦を訪ねて、請願しました。
 かねてより経彦の神道家としての力量を評価していた稲葉は、
「もし私が神道本局の管長に就任することができて、そして神理教が独立請願をしてくれるなら無条件で協力しよう」
 と約束しました。
 神道界にとっても、そのほうが得策だと判断したのでした。

 稲葉は下馬評どおり長官に就任しました。
 この就任をもっとも喜んだのは、徳力の地に教団を構える神理教の面々だったでしょう。
 経彦は早速独立の請願をしたためて神道事務局を訪ねました。
 ところが、神道事務局の返事は、
「――却下」
 でした。
 神理教の独立は許されなかったのです。
「なぜだ!」 
 経彦が怒鳴って、
「私は稲葉さんと約束しておるんだぞ。長官になったら許可する、と」
「そんなこと言われてもねえ。私たちは、その経緯を知らないんだから」
「ならば長官に直接きいてみてくれ」
 食い下がりますが、相手は経彦がいみじくも、
「腐ったかぼちゃに釘」
 と評した役所です。

 悪臭を放つぶんだけ、「糠に釘」より始末が悪いと言えます。結局、何度かの押し問答を繰り返しましたが、
「長官と約束したという確固たる証拠がない」
 という理由で、独立の約束はいっこうに履行されませんでした。
 正論を吐くがゆえに経彦を快く思っていなかった神道事務局が、意地で邪魔したということになります。稲葉長官が主義・主張を変えたのもまた、組織を維持する立場であれば当然ということでしょうか。

 結局、独立まで、さらに十年の歳月を待つことになりますが、一方で経彦は神道事務局の権少教正に、そして翌十八年には権中教正に昇級しています。二年前に権少講義から五階級特進して大講義になっていることを思えば、異例の特進として注目を集めました。神道家として第一級であったことはもちろんですが、特進の背景に皇室関係者の理解と交流があったからだと思われます。
 そういえば、経彦が小松宮彰仁親王に拝謁して『行幸眺望』二巻を天覧に供え奉ったのはこのころのことで、このとき小松宮より、『神理明而皇威愈隆矣』という親筆をいただいています。経彦が、もし凡庸な宗教家であったなら、こうして宮様はじめ各界の錚々たる人たちに賞賛され、日々、高まる名声のなかに安住し、教祖として優雅な半生を送ったことでしょう。しかし、その地位と名声に安住することなく、巡教のため全国を行脚することになるのですが、経彦の宗教家としての非凡なところは、布教活動のみならず、
 ――北九州の発展
 という大局観を持っていたことではないでしょうか。
 すなわち門司の海面を埋め立て、北九州の産業基地にしようとする壮大な築港計画がそれでした。

 門司築港

 明治十九年の春先のことです。
 蒲生八幡宮の宮司である高山定雅が神理教の本院を訪ねると、経彦が待ちかねたように、
「定雅さん、たまには風師山にでも登って、潮風に吹かれてみませんか」
 と、腰を浮かせました。
「まあまあ、お茶くらい飲ませてもらっても罰は当たるまい」
 と、三つ年上の高山は手で制しながら、自分の妹で、経彦の妻である集義子に、
「おい、お茶をくれんか」 
 と笑いかけました。
 高山と経彦は、西田直養の門下生として机を並べた仲で、直養の死後、幸彦神として祀った幸彦社は、二人して蒲生八幡宮境内に建立したものでした。高山は経彦のよき相談者であり、ゲジゲジ眉にエラの張った顎が男気と意志の強さを表していました。
「それにしても潮風とはねェ。朝っぱらから風流なことで」
 と高山がおどけてみせたのは、経彦がのんびり風情を楽しむ性格でないことを承知していたからです。何か相談事があるのでしょう。高山はそう察していました。
「さあて、せっかくのお誘いだから、おつき合いさせていただくか」 
 ふた口ほどお茶をすすってから、高山はさっと立ち上がりました。

 風師山は、徳力から小倉を抜け、企救半島の海岸線に沿って伸びる門司往還を東に二里ばかり行ったころにあります。経彦の健脚はすでに紹介したとおりで、およそ散歩とは言いがたい足の運びでスタスタと行っては立ち止まり、足踏みをしながらじれったそうに義兄の高山を振り返ります。
 ところが高山は、
「春宵の一刻は値千金と言うが、さて、春朝の一刻はなんと言うのかね」
 などと、のんきなことを言っています。
 結局、二人が海抜三百六十二メートルの山頂に立ったころには、太陽は頭上に昇り、春先のやわらかい日差しも汗ばむほどでした。
 眼下に関門海峡、左手に玄界灘、そして背後に遠く周防灘が広がっています。汗ばんだ肌に潮風が心地よく、深呼吸すると、潮の香りが鼻孔をくすぐりました。背伸びを一つして、高山が経彦の横顔をうかがうと、経彦は対岸を見つめていました。
「何を見てるんだい?」
「あの賑わい……」
 と指さしました。
 下関港でした。
 海面にオモチャの船をバラまいたように大小さまざまな船が、せわしなく行き交っています。
「あれが近代日本の息吹です。これからは石炭が国家的事業になります。しかし、その筑豊の石炭は、遠賀川を下り若松港から積み出されている。このままでは企救郡の発展はありません」
「そりゃ、そうかもしれないが……」
 唐突な話に面食らう高山にかまわず、
「企救郡を発展させ、生活を少しでも豊かにするには、築港――港をつくるしかありません」
「港だって?」
「そうです、港です、石炭を積み出す北九州の玄関です」
 経彦が向きなおって言いました。

(――本気か?)
 疑わしく思いながら、
「しかし、港といってもなあ……」
 と、高山は海岸線を見回しながら言いました。
 企救半島は、関門海峡側は切り立った崖下の狭い低地が続き、瀬戸内海側はゆるやかな傾斜ですがリアス式海岸となっています。港には不向きに思われました。

「で、どこに築港しようというのだ?」
「門司です」
 経彦は即座に答え、今度は右手眼下の門司を指さしました。
「門司?」
「そうです、門司の塩浜を埋め立てて、港を構築するのです」
「埋め立てすると言っても……」
 高山は、経彦の大胆な発想に言葉を呑んでいました。