平成16年1月(2004−1)

************************
  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
************************


開教・独立までの軌跡


 日枝神社

 神戸から再び船に乗り、横浜港から陸船(汽車)で新橋に到着したのが十一月三日。この日はちょうど天長節だったので、首都はにぎやかでした。
 雅さには欠けるものの、さすが東京です。
 時代の華がありました。
 そこには「西洋」がありました。
 ――匂い
 とでも言ったらいいでしょうか、言葉につくせぬ「西洋」の雰囲気を、到着したばかりの経彦は感じていました。
 丁髷を落とした散切り頭も、時がたてば毛がはえそろうように、文明開化に浮かれた世相も、いまはすっかり落ち着いて見えました。
 経彦が東京の地を踏む二年前の明治十二年七月、アメリカの前大統領であるグラントが来遊し、東京市民は歓迎の夜会を工部大学校で催しました。参加者は数千人にも達したと当時の新聞は伝えています。
 これが日本で最初に開かれた夜会であり、絢爛たる舞踏会で知られる鹿鳴館時代は、これより五年後、明治十七年(一八八四年)からの三年間を言います。
 さて、経彦たちの滞在先は、同郷で知人の内藤秀次宅で、場所は、本郷でした。
 翌四日、東京見物の案内を断り、早速、赤坂の日枝神社に詣でています。    
 神殿に柏手を打ってから、経彦は社務所を訪ね、名前と身分を告げて、
「ここではどのような説教を行なっているか、教えていただきたい」
と申し出ました。
 社務所に座っていた二人の神職は、顔を見合わせました。この忙しいときに、田舎の神道家がめんどうなことを訊く、とその顔に書いてあります。
「お宅ねえ、いまどき神道を講じても聞く人なんかいないよ。だから、うちでは〈忠孝〉を説いているよ。」
 と、いいかげんで乱暴に答えます。
「〈忠孝〉ですか?」
「そう」
「〈忠孝〉の精神を説くのは儒教の講義じゃないですか」
 と、つい声高になって経彦が言い返しました。
「神主ならば神道を説くべきではないのですか。そもそも〈忠孝〉は、人間自然の道たる神道の立場から説くべきで、こうした大本を説かずして表層の忠孝のみ神主が説くのはおかしい――」
 たしかに一千年以上にわたって神仏は習合してきました。
 儒教とも融和しました。
 しかし維新の王政復古によって、神仏は離反され、神道は国の宗祀になったのです。にもかかわらず、なにゆえ儒学をいまもって説いているのか。経彦は腹が立ってきて、ついに声を荒げたのです。
 これには神職二人は面食らいました。
「あんたね、そんなことを私に言われても困るんだ。」
 ムッとして言います。
「そんなことで、外教に対抗できると思っているのか。いま神道は眼を覚まし……」
「さっ、忙しいから――」
 ピシャリと窓を閉めると、そっぽを向いてしまったのです。
 得体の知れぬ田舎者にインネンをつけられたとでも思ったようです。
「教長さま、まいりましょう」
 と、鎮弥にうながされて、歩き出そうとすると、ふと神前に赤いものが見えたので、経彦は眼をこらしました。
「なんでしょうか」
 鎮弥が言います。
「さあて……」
「あれれっ、教長さま、あれは!」
 と、鎮弥が神前の赤いものを指差しながら素っ頓狂な声をあげました。
「猿ですよ、猿」
 鎮弥が笑っています。
 赤い着物を着せられた猿が、神前で大あくびしているのでした。
「人寄せに猿を使うとは……」 
 と、経彦はつぶやいて、
「なぜ教義で人々を導かないのだ」
 吐き捨てるように言いました。
 筆まめな経彦は、今度の東京行きを「東行記」として日記に残していますが、このとき対応した二人の神職について、
〈烏帽子狩衣を召して、もの言ひかわす社務所の人形に見えたり〉
 と痛烈な皮肉を書き記しています。

 
 直談判

 上京の目的の一つに、教導職試補の問題がありました。門人の何人かは、すでに二年前に試補の試験に合格していながら、その認可がいまだ下りていないのです。
 教導職というのは国家資格で、これがないと公に布教することができませんでした。経彦自身はすでに明治十二年一月に教導職試補となり、同年六月には権少講義に任ぜられていましたが、これから神理教を発展させるには、門人たちに教導職試補の資格をどうしても取らせる必要がありました。
 すでに合格はしているものの、認可を下ろしてもらうには政治的な根まわしがいると考えた経彦は、十一月八日、浅草神社祇官の大畑弘国を訪ねました。
 弘国は、経彦の話に黙って耳を傾けていましたが、
「神道事務局の怠慢だな、それは」
 と、経彦の肩を持ってくれました。
「口添えをお願いできますか?」
「うーん、それはあれだな、やっぱり直接、当事者のあんたが出向いて話をしたほうがいいだろう」
と、視線をそらせながら、
「ええっと、そうだな、神道事務局の折田年秀教正、宍野半教正のどちらかに会って事をはかるのがいちばんの近道じゃて」
 田舎の宗教家の肩をもって、神道事務局ににらまれるのは割に合わないと考えたのか、口添えは体裁よく断られたのでした。
 翌朝、経彦は早速、折田年秀教正の自宅を訪ねました。いや、乗り込んだというべきでしょうか。神道事務局に行ったのでは門前払いの危険がありました。
 直談判です。
 応接間に向かい合い、自己紹介もそこそこに経彦が試補の件を持ち出すと、
「試補の制度は、二年前――十二年十一月に停止になっているではないか。知っているだろうに」
 なにをいまさら、という顔で折田教正が突っぱねました。
「知ってはいますが、しかし十二年の八月から十月にかけて分局で試験が行なわれています。これらは制度停止の前に当たります。どうして許可しないのですか」
と、経彦が食い下がります。
「さあ、私にはわからんな」
「私の神理教会は十三年七月に許可されましたが、その条例第六条には、『教導職志願のものは試験の上、分局に申したてよ』とあります。ということは、この条例は試験があることを前提にしてのことではありませんか?試補を置かなければ葬儀はできないことになっています。葬儀ができなければ、神道は復古したとは言い難いではないですか」
と、理詰めで追求します。
 さらに経彦の鋭い弁説は神祇行政について批判を展開しますが、年秀は最後まで聞かず、
「理屈をこねても無駄なことだ」
とすげなく断り、
「ときに駿河台にあるロシア正教のニコライ神父は、洗礼を行なうに際して、天皇の像を踏ませているそうじゃないか」
と言いました。
 このときの折田教正の真意はわかりません。
 ニコライ神父を批判したのか、不敬を許す政府を批判したのか、あるいは神道の力の限界を示唆して経彦にクギを刺したのか。
 しかし、あまりの衝撃に経彦は手心を加える余裕はありませんでした。外教の台頭が国体に及ぼす害悪について、あれほど警鐘を鳴らしたのになんたるザマだ。
「神道が皇国の御盾にならずんば、だれが守りますか!神道は国の宗祀ですぞ!」
経彦は叫んでいました。
 しかし折田教正は苦虫をつぶしたような顔で、そっぽを向くばかりでした。
 経彦はこの日の日記に、
〈国教地を払い、府下に人物なきことを知り、言は益なきことと思いさだめやみたる〉
と記しました。
 言は益なきこと――神道家たちは、ただ表面だけで皇国の忠を説いているに過ぎないことを知って、経彦は失望するのでした。
 ニコライ神父の一件に、膝が震えるほどの衝撃を受けた経彦ですが、三年の後、ニコライ神父と歴史に残る大論戦をたたかわすことを、はたしてこのとき予感したでしょうか。

 黒い十字架

 翌日、東京の宗教状況に失望した経彦は、青山墓地へ参りました。一昨年五月、不平士族、島田一郎によって暗殺された大久保利通の墓があると聞いて、出かけていったのです。
 よく知られているように、大久保利通は薩摩藩の下級藩士の出身で、倒幕の密勅から王政復古にいたる一連の政局の大転換に主役を演じた人物です。さらに明治政府にあっては大蔵卿となり、版籍奉還、廃藩置県など中央集権の強化に努めました。いわば天皇制支配の基礎を固めた人物であり、彼の死は、天皇制確立に命を捧げた殉死であると経彦は高く評価していました。
 また大久保利通が、宗教行政をも司る内務卿当時、経彦は自著である『本教要言』と『天津皇産霊考』とを送っています。
 そうした関係があって、お参りに行ったのでした。あるいは天皇制を支えるべき神道のふがいなさをどうすべきか、大久保の知恵でも借りようとしたのかもしれません。
 都心に広がる青山墓地をゆっくり歩いて行くと、仏葬による墓がときおり眼を引きました。青山墓地は明治三年四月、神道が国の宗祀となって以後、神葬用として新たに設けられたものです。すでに神仏習合の時代は終わっているのに、こうして仏教が同居しているのは、何ともいやな気分でした。
 そんなことを思いながら、ひょいと首をふって、ギョッとなりました。
 神葬の中に忽然と立つ黒塗りの十字架を発見したのです。
「こ、これは、いったい……」
 経彦は、水桶を落としたのも気がつきませんでした。
「鎮弥、これはどういうことだ、なぜキリスト教の墓がここにあるのだ!」
 神葬の墓地に立つ黒い十字架をじっと見つめながら、経彦の鼓動は早鐘を打つのでした。

 神道事務局から出頭命令

 経彦が宗教活動に身を投げ出した理由は、大きく二つあると考えられます。
 一つは、饒速日命七十七代に当たり、古神道の再興を担う使命をもって、この世に生を授かったこと。
 もう一つは、強烈な愛国心です。外教に走った人々を人間本来の信仰である神道に気づかせ、帰教させ、それによって皇国日本を守ろうとするものでした。キリスト教や仏教に対抗するために神道を興したのではありませんでしたが、外教の信者を神道に帰教させようとする布教活動は、結果として外教への対抗という図式になっていきます。
 前に述べたように、キリスト教における神は、「キリストによって啓示された神」を言います。
 一神です。
 絶対的な一神です。
 これに対して神道は多神です。
 八百万の神です。
 そして天皇は、そのなかの天照大神を始祖とします。
 これが日本民族の原点なのです。
 ただ神理教の場合は、神道を一神とか多神に限定しません。先にあげた十八柱の神を天在諸神として一神と見なすこともできるからです。
 それはさておき、キリスト教のことです。もしキリスト教が蔓延すれば、神の概念がまったく違うのだから八百万の神は否定され、天皇と日本民族はその拠り所を失って崩壊してしまう――というのが、経彦の外教に対する危機感でした。
(どうしてそのことに世間は気がつかないのか)
 と、経彦はひどく悔しがるのでした。
 今朝、経彦は、「東京」という地名の是非をめぐる新聞記事を眼にしました。
 記事の大要は、
〈慶応四年七月の詔書に「自今江戸を称して東京とせん」とあるが、これは「江戸」を
「東の京」にするという意味のことで、「江戸」を「東京」と改称したのではない〉
 というものでした。
 この是非をめぐって侃々諤々の論議が行なわれているのを読んで、
(なんと世間はのんきなことよ)
と嘆き、そして焦りを覚えるのでした。
 経彦は憑かれたように神道家を訪ねました。押しかけました。論議を挑むことで、彼らの眼をさまさせようとするのでした。
 しかしそれは、動かぬ巨岩に素手で穴をあけるのに等しいことでした。
 そんなある日、神道事務局より呼び出しが来ました。教導職試補のことかと喜びましたが、そうではありませんでした。
「神理教会規約のことで尋ねたいことがあるから、出頭せよ」
 ということでした。
「いまごろなんだろう」
 つぶやく経彦に、
「いやがらせかもしれません」
と、鎮弥は表情を硬くして言いました。
 経彦は、いまや神道事務局にとって、やっかい者だったでしょう。正論を吐き、それを行動に移す人間は、いつの世も、どんな世界においても、体制側にとって眼の上の瘤となります。
「なにを聞かれても結構。堂々と意のあるところを述べるまでだ」
と、経彦はきっぱりと言いました。
 神道事務局は五人がかりで経彦に当たりました。先日、経彦が自宅に乗り込んだ折田年秀教正、それに論客として知られる穂積耕雲らが顔を揃えていました。
「それでは佐野さん」
と、穂積耕雲が口火を切りました。鼻筋が通り、痩身に度の強い丸眼鏡は、いかにも神経質そうでした。
「神理教の教義について訊きたいのだが、あなたは、人間の帰着安定には父母の善悪が関係するという説を述べておられる。これは具体的にはどういうことかな」
「それはですね」
経彦は『神理図』を広げて、善因善果、悪因悪果について説明を始めましたが、途中でバカバカしくなってきました。
 ここに居並ぶ連中は先刻承知なのです。
 知らないわけがありません。
 この呼び出し自体が嫌がらせなのでした。
 彼らの眼が冷たく笑っているのを見て、経彦は話の矛先を一転させました。
「ところで、いまの神道は名があって実がないのをみなさんはどう思われるか。神楽と称して、神楽殿に狂言を興行し、教会はと言えば酒盛りである」
 水が流れるように弁じ始めたのです。
「き、君、そんなことは、いまここで論じるべきことでは……」
 穂積が驚いて口をはさもうとしましたが、経彦はそれを無視して、
「こんなありさまを見て、やむにやまれず道を説くのは、私自身の性質から生じたことではなく、日本という国の性質に基づくものである。穂積殿、折田殿――その気持ちが起こらないのは、怠慢というべきではないか」
「で、この『神理図』を子細に検討したが」
と、折田教正は経彦にとりあわず、
「神理教も、結局は仏教に基づく神道というのを免れないのではないか」
と追及してきました。
 これは、
〈父母の行為の因果関係によって、子孫の吉凶禍福が決まる〉
という説に対して出されたもので、「因果関係は仏言である」というのが折田教正の主張でした。
 穂積がひきとって、浪曲のような節をつけながら、
「親の因果が子に報〜い」
と唸ったので、居並ぶ事務局の連中がドッと笑いました。
「冗談じゃない!」
経彦の顔色が変わりました。
 これほどの侮辱はありません。
「では訊くが――」
 と、立ち上がり、穂積の眉間に指をピタリと据えて、
「親の因果が子に報いというのが仏法だと言うのなら、仏教の、何宗の、どの経典にでているのかを明らかにしてもらおうではないか」
と反問しました。
「そ、それは……」
返答に詰まる穂積に、経彦は、
「これは神ながらの大皇道である」
と断じました。
 こうした経彦の態度に圧倒されたか、あるいは嫌気がさしたか、折田教正が、
「佐野さん、あんたの論は至当であるのはわかるが、事務局の内輪でもめごとは起こさんでくれんか」
と、本音をもらしました。
 妥協の提示です。
「なにをおっしゃる。論議はこうしてもみ合ってこそ、神道界を活気づけるものですぞ」と、経彦はさらに弁じ、神道事務局を評して、
「腐ったかぼちゃに釘――」
と激烈に批判し、意気揚々と引き上げて行ったのでした。
 もちろん、と言うべきか、教導職試補の認可は依然としておりないまま、明治十四年の年を越し、新年一日から、経彦は相変わらず論戦を挑んで歩きましたが、神道界という巨岩に穴をあけることはできませんでした。