平成15年5月(2003−5)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 こうした世相の正反対にあって、著書を著しながら、ひたすら秋を待つ経彦の身に不思議な霊告や夢想が起こり始めるのは、東京市民がのんびり市内温泉につかっていた明治八年の暮れからでした。
 はじめ経彦は、
「禍神のわざか、我が心の乱れか」
と疑いましたが、霊告や夢想がことごとく的中するに及んで、次第に秋の到来を予感するようになっていきます。
 ご神拝する経彦の前に、天在諸神が次々と姿を現すのは、それから約一年がたった明治九年十月十六日の早朝のことでした。
「汝経彦、神に代わって誠を明らかにせよ」
と神々は告げました。
 ちなみに「天在諸神」とは、『古事記』にいう別天神(五柱)と、神世七代(十二柱)、それに天照大神の十八柱のことで、神理教のご祭神として現在も大教殿ならびに造化神宮に祭祀されています。参考までに、その十八柱を紹介しておきましょう。
  天之御中主神:あめのみなかぬしのかみ
  高御産巣日神:たかみむすひのかみ
  神産巣日神:かみむすひのかみ
  宇麻志阿斯詞備比古遅神:うましあしかびひこじのかみ
  天之常立神:あめのとこたちのかみ
  国之常立神:くにのとこたちのかみ
  豊雲野神:とよくもぬのかみ
  宇比地邇神:うひじにのかみ
  須比智邇神:すひじにのかみ
  角杙神:つぬぐいのかみ
  活杙神:いくぐいのかみ
  意富斗能地神:おおとのじのかみ
  大斗乃弁神:おおとのべのかみ
  於母陀琉神:おもだるのかみ
  阿夜詞志古泥神:あやかしこねのかみ
  伊邪那岐神:いざなぎのかみ
  伊邪那美神:いざなぎのかみ
  天照皇大神:あまてらすすめおおかみ
 以上の神々が経彦の前に次々と姿を現し、
「神に代わって誠を明らかにせよ」
と命じたのです。
 〈目に見えぬ天つ神業目に見せて人の誠の道標せむ〉
と詠んで、深々と頭を垂れると、経彦は勢いよく立ち上がりました。
 ついに、その秋が来たのです。
 饒速日命の子孫、巫部七十七代に祖神さまから命が下ったのです。
 この時、経彦は四十二歳でした。
 経彦は祭壇の父経勝と母佐陀子に手を合わせ、そのことを報告すると、父の遺影が微笑みました。
 錯覚ではありません。
 経彦はハッキリ見たのでした。
 この日を境に、あたかも極限まで絞られた弦から矢が放たれたかのように、経彦は寝食を忘れ、日本古来の民族精神である古神道へ帰ることを天下に広く宣教して歩きます。
 経彦が神道事務局に神理教会開設の願いを出して許可されるのは、それから五年後の明治十三年七月十九日のことでした。

 妻、集義子

 神理教会開設の許可が下りると、経彦はそれまでにも増して、積極的な布教活動を開始しました。北九州一円をめぐり、多くの聴衆を前にして、
「人は、等しく神の分霊をいただいて生まれてきた〈神の子〉である。神は親である。親である神の心にかなわねば幸福はない。神の言うことを聞かねば幸福の扉は開かれない。神は静かに社に鎮まっているのではなく、一刻も休みなく、しかもどんな小さいものの中にも働いておられる。その働きとは、善と悪、清と濁を分けておられ、なお悪は善へ、濁ったものは清いものへと浄化しておられる。そして、この神の働きを『神理』と呼ぶ」
と、説いて回りました。
 経彦の火の出るような演説に、信者の数は急速に増えていき、明治十三年の十一月に筑前の遠賀郡に講社が、そして翌年四月には豊前企救郡に分教会ができました。
 さて、ここで、経彦の妻となる集義子についてふれておきましょう。
 経彦が集義子と出会うのは、ちょうどこの時期――正確には神理教開設の許可がおりる二年前の明治十一年のことでした。心臓病を患い、それが不治の病であると診断されたことから、集義子は信仰の道に入り、経彦の教導を受けて全治するのです。
 集義子は嘉永六年九月十三日、父・高山定馨(蒲生神社宮司)、母・多加子の次女として、企救郡南方村に生まれています。幼い頃より父にしたがい、書道、歌道、点茶などをおさめた才媛として近在の人々に知られていました。
 信仰に目覚めた集義子は、兄・定雅、従兄・峰種定、西田親吉、古川鎮也らとともに、神理教の布教に従事します。これが心臓病を患った同じ女性であるかと見まちがうほど、寝食を忘れて各地を奔走しました。
 経彦と集義子が祝言をあげるのは、神理教を興して六年後の明治十九年十月十四日のことです。