平成15年4月(2003−4)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 さらに翌明治六年四月、教部省は布教活動の実施に当たって、「教導職制度」を発足させ、十四の階級を制定しました。
 この制度は大きな意味を持っています。教導職制度とは、教化する人物を公的に認可するもので、神道界の組織的な布教・教化体制を促進させることになります。それまで神道は、仏教宗派に匹敵できるような布教・教化の体制も教義も整っていなかったわけですから、これは大変な進歩でした。
 ところが明治八年、神道界と仏教界の反目から大教院が揺らぎ、浄土真宗大谷派が大教院から分離しました。これが引き金となって、神仏合同布教は差し止めとなったのです。そして、大教院廃止に伴い、神道界は神道事務局の設立を願い出て、教部省から許可されます。神道事務局には、神道界の主だった人が結集しましたが、当時神道界は、神道の定義すらできない者も多く、それぞれが勝手な意見を述べて、ばらばらの状態でした。
 こうした宗教乱世にあってもなお、経彦は徳力の地を動こうとはしませんでした。

十八神が現われる

「先生、陸蒸気が開通しましたね」
 と言って、門人となって日の浅い太田青年が新聞を持って経彦の書斎に入ってきました。
 明治五年九月十二日のことです。
「どれ」
 と、経彦は執筆の手をとめて、新聞をのぞきこみました。 
 東京―横浜間の鉄道が、明治三年三月に着工して以来、二年半をかけて開通に至ったと、新聞の記事は伝えていました。
「先生、これで日本も近代国家に一歩近づいたということですね」 
 と笑う太田青年に、
「それは違う」
 経彦がピシャリと言いました。
「違いますか?」
「ああ、違う。しょせんこの鉄道は、英国から借金してつくったものだ。世論は伊藤博文、大隈重信の勇断と持ち上げているが、私はそうは思わない」
「なぜです」
 太田青年の眉間にしわがよっています。
「我が身に置き換えてみるがいい。例えば君がどうしても人力車が欲しいとする。あれば便利だ。楽して、早く着ける。荷物もたくさん積めるので、経済効果も期待できる。日本国でいえば鉄道がこれに当たるわけだな」
「はい」
「ところが、君にはお金がない。財政難だ。そこで一計を案じ、借金をして人力車を購入する。金を借りた相手は、前々から君の家屋敷が欲しくて、チャンスをうかがっていた隣村の高利貸しであった……。はたしてこれが勇断であろうか? ただ借金してものを買うなど、子どもでもできることだ」
「……」
「一国が借金するということは、国を担保に入れたと同じなのだ。高利貸しは、ほくそ笑んで、虎視眈々と君の家を狙っていることだろう。いま日本にとって大切なことは、借金して鉄道を敷くことではなく、諸国交流という、いわば乱世を迎えるにあたって、国家として、民族として、日本古来の確固たる思想を再認識することなのだ」
 と諭したのでした。
 しかし、そうした経彦の心配をよそに、世間は鉄道開通にわいていました。
 当時の資料を読むと、東京―横浜間は、午前、午後にそれぞれ三往復ずつ一日六往復で、所用時間は三十五分とあります。車両の等級は、上等・中等・下等の三段階に分かれ、料金はそれぞれ一円五十銭、一円、五十銭。当時、一円あれば米三斗が買えたのですから、三十五分間の乗車賃は、やはり高いものでした。
 これは余談ですが、『乗客心得』を見ると、喫煙車以外では喫煙を禁止していることが目を引きます。喫煙マナーは、当時のほうがずっと進んでいたということかもしれません。
 もう少し、当時の世相を紹介しておきましょう。
 鉄道開通と前後するように、日本に野球が伝わるのは、翌明治六年のことです。汽車製造法を研究するためにアメリカに渡っていた鉄道局の技師・平岡煕が、帰国する際に持ち帰った一本のバットと三個の硬球が、日本の野球の始まりといわれています。日本最初の球団チームは、鉄道局のメンバーを中心とした「新橋クラブ」で、これに東京や横浜在住の米国人なども加わっていたといいます。
 さて一方、東京で市内温泉が大はやりするのは明治八年。経彦が徳力にこもり、『企救郡誌』五巻を著した年のことです。
 この年の夏は異常な暑さで、それをしのぐ場所として東京のあちこちに温泉がつくられ大繁盛しました。いわばアイデア商法でしたが、客は風呂からあがると料理やお茶とお菓子を注文して、ひとときを楽しむのです。いまでいう ”健康ランド“のミニチュア版だと思えばいいでしょう。
 日本の行く末とは無関係に、庶民はしたたかに人生を楽しんでいました。封建制度という厳しい身分制度から解放され、明治の世はにぎやかに進展して行くのでした。