平成15年3月(2003−3)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 さて、千年以上も習合(異なる教義の良いところを取り合わせること)関係にあった神道と仏教でしたが、明治新政府は明治元年三月二十八日、祭政(祭事と政治の)一致を掲げて神仏分離令を布告します。旧幕府の権力と密接に結びついていた仏教勢力の一掃をはかったのです。これによって神道勢力は勢いを得ますが、一方の仏教は、仏寺・仏像・経巻の破棄など廃仏毀釈(仏教排斥)運動が全国に広がっていきます。
 神職が、社僧(仏教)の下位に甘んじてきたという歴史的ないきさつもあって、廃仏運動はすさまじいものでした。延暦寺の支配下にあった日吉大社では、神職たちが神殿に乱入して、仏像や経典、仏具を破壊したり燃やしたりする一方、神仏習合の神社であった京都の祇園社、岩清水八幡宮、愛宕大権現は、それぞれ八坂神社、男山神社、愛宕神社に改称させられました(男山神社は、その後再び岩清水八幡に改称)。
 さらに、明治二年、政府は神道強化のため「神祇官制度」を復活させます。神祇官というのは、古代国家の祭典の中心的な役割を果たした祭主で、実に千年の時を経ての復活でした。神道を国家統合の精神とする近代天皇制国家は、こうして幕を開けたのです。
 そして明治三年、「大教宣布の詔」が全国の神道家に発せられたわけですが、こうした一方、独自の教義をもって教化・布教を行ってきた神道系各宗派は、教派神道として独立をめざします。のちに教派神道十三派と呼ばれるもので、経彦の興す神理教のほか出雲大社教、御獄教、黒住教、金光教、実行教、神習教、神道大教、神道修成派、神道大成派、天理教、扶桑教、禊教がありました。
 翌明治四年、
「神社ノ議ハ国家ノ宗祀ニテ……」      
 という太政官布告によって、神道は、
――国の宗教
 となります。
 しかし、その一方で、西洋に草木もなびく文明開化の世相を背景に、キリスト教が水面下で急速に勢力を伸ばしつつありました。
 佐野経彦は、こういう時代にいたのです。

キリスト教台頭への危機感

 明治九年の秋――。
 神医を返上した経彦は、相変わらず著作活動に専念しています。『企救郡誌』五巻を太政官に献上して、賞詞と金一封(二円五十銭)を授かったのは、昨年暮れのことでした。
 王政復古の大号令に、
「我が時代、来たれり」
 と心を踊らせた経彦は、しかし動きませんでした。
 それが若い門人たちには不満でした。
「経彦先生、いまこそ日本古来の精神である古神道を説くべきではありませんか」
 と、血気にはやって(勢い込んでむこうみずに行動すること)直接、経彦のもとに強く交渉しにやってきますが、
「いまだ秋至らず」
 と、静かに応えるばかりでした。
「では先生、その秋はいつ来るのです」
 と、さらにつめよりますが、経彦は目もくれず、執筆を続けました。
 しかし、門人たちの焦りはもっともでした。彼らはキリスト教の台頭に危機感を持っていました。なぜならキリスト教は一神教であり、八百万の神をいただく神道とは絶対に相入れない関係にあったからです。
 すなわち、
「天皇は、天照大神を始祖とする神の直系子孫である」
 とする神道の教義を、キリスト教は真っ向から否定してしまうのです。これは仏教も同じです。
 神道の否定が、そのまま日本民族の否定につながるという危機感は、神道を宗祀とし、天皇を国民の心の絆とする近代立憲君主国家の確立をはかった政府もまた同じでした。キリスト教の台頭を放置することは、国体――すなわち国家の存立そのものに関わる重大事でした。
 明治五年、政府は、
「神仏が一致して外教に当たるべし」
 という対キリスト教政策を打ち出し、神仏合同による布教活動の実践機関として
「教部省」が設置されました。
 廃仏運動と神仏合同布教とは矛盾しますが、これはとりもなおさず、背に腹は代えられないという明治政府のあせりと解釈することができるでしょう。また、仏教サイドにしても、これを拒否できる状況にはなく、またキリスト教は仏教にとっても脅威だったので、むしろ積極的に支持し、「大教院」の設置を提案しています。
 これは宗教的教化を具体化するために、教部省の下に、その活動を援助する外郭団体として「大教院」を設置するというピラミッド型の組織形態でした。宣教によって信徒を獲得するシステムを持たない神道に対して、大本山を頂点とする縦割り組織の仏教界にしてみれば、いわばお家芸とも言うべき布教・教化のシステムでした。