平成15年2月(2003−2)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 やがて佐野経彦は、キリスト教の勢力が伸びてきたことに対して、国家の危機感を叫んで戦いを挑んでいくのですが、そのことについては後で述べるとして、その明治の宗教界のことです。
 西欧へ草木もなびく、この時代にあって、日本古来の宗教である神道は急速に歴史の表舞台に登場してきます。一見、時代とは逆の方向に進んでいるように見えますが、徳川幕府を倒し、王政復古するという明治維新の指導原理となったのが国学である以上、国学がめざす復古神道が台頭してくるのは歴史的に当然のことでした。
「活躍の時来たれり」
 と、経彦が喜び張りきったのは、実は、こうした時代の流れを読んでいたからにほかなりません。
 さて、経彦が天在諸神からお告げを授かり、神理教を興して波乱の道を歩み始める物語に筆を進める前に、神道についてふれておきましょう。神様や神社ほど、我々の身近にあって、なおその実態がわかりにくいものはないからです。
  
復古神道 

 神道について、『日本宗教辞典』には、
 〈神道の成立は日本の民族文化のそれとほぼ一体であって、かつて一度もこの民族社会を離れて営まれたことがない宗教文化だという事情がある〉
 と述べています。
「神道」の成立と「日本民族文化」の成立が一体ということは、神道は日本そのものであるというとになります。
 このことは、例えば地鎮祭や竣工式、神前結婚などを見てもわかるとおり、神道はそれを宗教と意識しないほど、我々の生活に深く根をおろしているのです。
 これに対して仏教や儒教、キリスト教は、外国で生まれ、育まれ、日本に入ってきたものであることから、
「外教」
 と呼ばれ、神道とは根本的に成り立ちを異にします。
 つまり神道は、日本固有の宗教であり、日本にしか存在しないのです。正確に言うなら、本来神道とは、民族のあるところすべてにおいて、それぞれ自然と祖先崇拝を基本として存在していたものです。ところが、いわゆる「外教」によってほとんどが消滅し、日本と、あとわずかな地域だけが――歴史に埋没しているかのように見えながらも――力強く残ってきたのです。 すなわち神道は、人類共有の財産であると言ってもいいでしょう。
 それはさておき、日本民族の原点である神道は、五三八年に仏教が渡来して以後、王政復古の明治維新まで、一千数百年の長きにわたって歴史の表舞台から身を引きます。正確には、神道と仏教は「神仏習合」という一心同体とも言うべき関係になるのですが、それは次のような経緯によります。
 インドで成立した仏教が中国から朝鮮半島を経て日本に伝来してきたとき、これを受け入れるかどうかをめぐって、ああでもない、こうでもないと、さまざまな論議が起こりました。
 容認派は蘇我氏で、
「朝鮮、中国など近隣諸国すべてが仏教を信仰している。日本だけがなぜ、その信仰を拒否しなければならないか」
 と主張しました。
 これに対して反対派は物部氏で、
「もし我々が違った神々(仏教)を崇拝するなら、八百万の神々の怒りを買うことになる」
 と反論しました。
 結局、こうした対立が何十年も続いた後、仏教支持派が勝利します。
 こうした経緯を経て、聖徳太子が仏教を奉じた六世紀末までに仏教は日本にどっかりと根を下ろすことになるのですが、仏教が日本全土に広まるにつれて、各地で既存の神道とぶつかることになります。
 利害の対立は当然でした。
 しかし、中東や東欧に見られるような血みどろの宗教戦争に至らなかったのは、両宗教の妥協によります。宗教が妥協すること自体、世界史のなかではめったにないことですが、これが共存協栄にして調和を第一とする東洋思想というものなのでしょうか。
 両宗教はお互いの共存のために歩み寄り、実体としてここに神仏は習合するのです。「習合」というのは、いくつかの教義のよいところを取り合わせることを言いますが、日本文化そのものであった神道は、教理教説といった枠からは比較的自由で、いわば〈空気〉のような存在であったことから、日本人は神道の素養を保ちつつも、仏教思想の影響と無縁ではいられませんでした。もっとも、影響ということで言うなら、様式で影響をうけたのはむしろ仏教のほうです。例えば先祖崇拝の習慣は仏教にはないし、初七日をはじめとする法事、さらにはお盆でさえ神道のものでした。  
 ともあれ、以上のことから、神道の思想と実体は、仏教伝来以前と以後とで変化しているわけですが、仏教伝来前の日本固有の神道を、
 ――古神道
 と呼び、そこに立ちもどるべしと復古神道を唱えたのが本居宣長であり、平田篤胤であり、佐野経彦はこの系譜につらなります。