平成15年12月(2003−12)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 さいしんろんそう     うれ
 祭 神 論 争 を 憂 う

 翌々日の午後、神戸港に到着した経彦と鎮弥は、その足で陸蒸気(汽車)に乗り継ぎ、京都に入ったのは夕方のことでした。
 さすがに京の都です。
 政治こそ、徳川時代に江戸に移って久しいものの、伝統文化の中心はやはり京都でした。江戸には威勢のよさはあっても、雅はない、というのが、このあと東京に着いてからの経彦の感想です。
 街を歩いていて、やたら眼につくのが万年青です。植木屋に『万年青入荷』の貼り紙があるかと思えば、窓からひょいと見えた家の中にも万年青がありました。そういえば、京都に向かう汽車の中で、そのときは気にとめませんでしたが、万年青の話を盛んにしていました。
「京の人は万年青が好きなんですね」
 と鎮弥が首をひねりました。
 万年青というのは、ゆり科の常緑多年生植物で、厚くて細長くつやのある葉が地下茎から群がって伸び、夏は円筒形の花穂に緑黄色の花がたくさんつきます。観賞用です。
 旅館に着いて、仲居にそのことを聞いてみると、
「それが静岡の遠州の村で開かれた盆栽会で、一株ン千円の高値をよんだそうどすえ」
 と、眼を丸くして言ったので、経彦と鎮弥は顔を見合わせました。
 二人は仲居の話が理解できていませんでしたが、このころ関西を中心にして万年青が大流行し始めていました。
 投機でした。
 あまりの加熱ぶりに、京都府庁は次のような告諭を出しました。経彦たちが京都に滞在中のことで、朝、新聞を読んでいた鎮弥が 
「あっ、万年青のことが!」
 と素っ頓狂な声をあげたので、経彦が読んでみると、次のようなことが告諭されていました。
〈近年、万年青が流行しているが、すべてが投機的であり、一時に巨利を得る者もいることから、正業を放って万年青に夢中になるものもいるが、失敗して破産してしまう者もいる。各自が反省し、このような浮薄な事柄に迷って本業に事欠くことのないよう、改めるべきである。この旨を告諭する           京都府〉
 読み終わって、
「まったく妙な世の中になってきたものだ」
 と経彦はつぶやきました。
 余談ながら、この告諭が出たとたん、万年青は十分の一以下に下落したものの、いまが底値とばかり買い占めた連中もいたと、当時の新聞にあります。京都府庁の告諭に続いて、大阪府は万年青の禁止令を発しています。
 さて、神戸から京都に着いた経彦たちは、暗くなる前にと、あわただしく宗教家たちを訪ねました。
 まず黒住講社です。黒住教は、明治九年、神道修成派とともに教派神道の中では成立がもっとも早く、組織、規模とも最大のものでした。さらに吉田神社の宮司、新風講社の教会長など、積極的に神道家の門を叩き、持参の『心理図』を広げて、その教義を説きながら、「キリスト教が燎原の火のごとく広がりつつある国難にあって、皇国の御盾となるべき私たち神道家は、このままでよろしゅうございましょうか」
 と迫るのでした。
 要するに経彦が言わんとするのは、キリスト教台頭の非常時に神道界は内輪もめしている場合じゃない――ということでした。
 実は、経彦が上京した明治十四年から十五年にかけて神道界は騒然たる状況にありました。
 祭神論争です。

 発端は明治八年に遡りますが、神道事務局の設置にあたって、事務局の神殿に奉斎する神々をどうするかをめぐって、大論争が持ち上がったのです。
 論争を一言で言えば、
「神道普及の主体として、天之御中主神、高皇産霊神、神産巣霊神、天照大神の四神に、出雲大社の大国主神を加えるかどうか」
 ということです。
 大国主神といえば、因幡の白兎の神話でなじみの神ですが、大国主神の存在および系譜については様々な論議があって、これを主宰神として認めるかどうかは神道界にとって重要な問題でした。この件に関して、神道事務局に意見を提出した者は十三万余りに及んだといいますから、論争の規模と根深さが理解できるでしょう。
「だが――」 
 と、経彦は、旅館で昼食をとりながら、お供の鎮弥に嘆くのでした。
「祭神はたしかに重要な問題だ。それはわかる。だがな、鎮弥」
「はい」
「その背景にあるのは、伊勢神宮と出雲大社の勢力争いだ。両者を中心とするグループの醜い主導権争いだが、そのこと自体はよしとしよう。ただし――」 
 経彦は箸を宙に泳がして、
「平時であれば、の話だ。祭神がどうしても譲れぬ問題であると言うなら、大いに論議するがいい。しかし非常時のいま、神道界は一致団結すべきなのだ。キリスト教がこのまま蔓延すれば、我が日本の神々は否定される。皇国はそのより拠を失ってしまう。日本の神々が否定されてしまえば、祭神論争どころではなくなる」
 神道界における危機感の稀薄さが、経彦には歯がゆかったのです。
 ふりかえれば、
「キリスト教の脅威に対して、神道を盛んにしてこれを防御すべし」
 という論議は、維新当初は神道家たちの間にあった一つの理念でした。
 しかし、経彦が上京途中にある明治十四年に至って、もはやこれを積極的に推進しようという状況にはありませんでした。国の宗祀となり、国をあげて手厚く保護されるようになったことによって、神道界に驕りが出てきたと言えないでしょうか。外教に関わるより、自分たちの勢力拡大が先なのです。
 経彦のとるべき道は二つに一つ。
 妥協するか、反発するか。
 経彦は迷わず後者を取りました。 
    
 二品宮に面会

 経彦が京都に立ち寄った目的の一つは、二品宮(久邇宮朝彦親王)を訪ね、著作を献上することでした。先に述べたように、乱世にあって事を成すには、権威に理解を求めることが大事です。明治にあって権威とは、皇室にほかなりませんでした。
 京都に着いた四日目の十月二十九日、経彦は田中教正(田中頼庸)を介し、二品宮へ面会が叶いました。大教団ならともかく、一介の宗教家が皇族に面会が叶ったのは、神道が国の祭祀であったからと思われます。
 経彦は二品宮を訪ねる道すがら、二十年を前にした昔、小倉のさるお屋敷の句会に乗り込んだときのことを思い出していました。若気の至りというのか、無鉄砲なことでしたが、あれでよかったのだといまは思っています。
 躊躇からは何も生まれません。
「ためらう者に好機なし」
 と、つぶやきました。
「はっ?なにかおっしゃいましたか?」
 と鎮弥が足を止めるのを、
「いや、なんでもない。ひとり言だ」
 と笑って先を促すのでした。
 二品宮は、経彦の一連の著作を褒め、
「今後の活躍を期待する」
 とお言葉を授けてくださいました。
 経彦は大いに気をよくして屋敷を辞しました。

 神道分局副長の入信

 翌朝、早々と朝食をすませると、経彦は荷物をまとめ始めました。二品宮に面会できたことで、京都での主目的は達せられました。あとは上京するばかりです。
 と、そのとき、ふと、
(そうだ、せっかくだから湊川神社を訪ねておこう)
 という考えがよぎりました。
 湊川神社には、世評名高い折田年秀がいました。
 会ってみたいと思ったのです。
「教長さま、船の出発時間は神戸港を二時ですから……」
 鎮弥が、支払いをすませ、戻ってきました。
「湊川だ」
「はっ?」
「神戸の湊川。湊川神社だ――さっ、出かけようか」
「は、はい」
 お供の鎮弥には否も応もありません。思い立ったらすぐに行動に移すのが、教長さまの流儀でした。
 しかし折田年秀は、不在でした。
「せっかくお越し願ったのに、所用で上京いたしております」
 と、禰宜は申しわけなさそうに、しかし、前もって手紙ぐらいよこすもんだ、といった顔で言いました。
 禰宜というのは宮司の次の位です。
「それが、急なことでして」
 と、経彦は非礼を詫びてから、
「ところで神戸には、折田先生のほかに、どなたか有名な教導職はいらっしゃいましょうか」と訊きました。
「これは、ご熱心なことで」
 と、なかばあきれながら、和田大猪を紹介してくれました。
 禰宜の説明によると、和田大猪は兵庫・和田神社の神官で、兵庫県神道事務分局副長を務める人物だということです。
 名は体を表すといいますが、会ってすぐ、
(この人は、その名のとおりだ)
 と経彦は思いました。
 容姿ではなく、その気性が、です。猪突というのか、一本気というのか……。相性というのは不思議なもので、自己紹介の言葉をかわしただけで二人はたちまち意気投合しました。
「佐野先生、むさくるしいところですが、よろしかったらお泊まり願えませんか」
 と、和田は経彦を引き留め、自宅に泊まるよう丁重に申し出ました。和田は天保十五年生まれというから、経彦より十歳下の三十八歳ということになります。
 二人は夜を撤して宗教論議に花を咲かせましたが、一段落したところで、
「ときに佐野先生」
 と、和田がお茶をいれ直しながら言いました。
「当地に天地幸福教というのがございまして、あたり一帯で急速に信者を集めております」
「ほほう」
 経彦が身を乗り出します。
 これから神理教を布教させていくうえで参考になるかもしれないと思ったのです。
「祝詞――というより、あれは歌だと思いますが、それを唱えながら踊るのです」
「歌と踊りですか」
「さよう」
「邪教……か」
 と経彦は眉をひそめましたが、和田が、
「しかし、その邪教に、わずか一ヵ月のうちに三百人以上が入信しているのです」
 と言う言葉に眼をまるくしました。
 邪教の”営業力“にではありません。
 世に迷える人はたくさんいながら、それを導くことのできない神道にあきれ、自ら反省し、絶句したのでした。
「邪教を責めてはならない。邪教を走らせてしまう我々を責めるべきだ」
 噛みしめるようにして、経彦は言いました。
「責任は我々にあり……ですか」
「そうです、我々にある」
 経彦のこの真摯な態度に和田は惹かれました。
「佐野先生、お願いがあります」
 いずまいを正して言いました。
「なんですか、あらたまって」
「神理教のご教書を送っていただけませんでしょうか」
「それはたやすいことだが、しかし……」
「門人の端に加えてください。神理教布教のために尽力させていただきたいのです」
「しかし和田さん、あなたは神道分局の副長の要職にある方ですよ。それが、よりによって……」
「おっしゃらないでください。これ、このとおりです」
 と、畳に手をついて乞うのでした。
 祇官にして神道分局の副長が、心酔するのです。鎮弥が神理教の未来を確信したのは、このときでした。