平成14年9月(2002−9)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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従 軍

 小倉藩は、徳川幕府の礎たる譜代大名として、長州征討に急いで参上しました。
 経彦は「神医」の評判を買われて、軍医として徴兵され、前線へ出兵しています。尊王派の経彦としては、佐幕(幕府を支持すること)と思想的には立場が異なりましたが、物事の区別がはっきりしない世の中にあっては仕方なく、負傷兵を助けるために参戦したのです。
 このとき経彦が軍医として、どんな活躍をしたか記録が残っていますが、そこに「神医」の片鱗(ごくわずかな部分)がうかがえます。小倉藩の青柳彦十郎率いる歩兵隊・片村登茂吉分隊長の談話として、
「(経彦が)治療用の器具として竹の筒で水鉄砲のようなものを作り、それを傷口に差し入れて水で洗った」とあり、
「簡単で荒っぽい治療であったが、不思議にも傷は直ちに治った」と、驚きの感想を述べています。
 しかし、第二次長州征討戦という運命をかけた大勝負は、薩摩が幕府の命令を拒否して長州と同盟を結んだために、幕軍は敗れます。洋式装備の長州軍に対し、所詮、よろいかぶとに和式の銃で立ち向かうのは無理だったとも言えますが、小倉藩は小倉城に自ら火を放ち、企救郡、田川郡、築上郡などに逃げました。焼け落ちていく小倉城は、あたかも徳川二百五十年の終わりを象徴しているかのように、経彦には見えました。
 長州征討に敗れたことで、幕府の権威は地に落ちました。桶いっぱいの水が、あと一滴でこぼれ落ちるように、幕府の崩壊は目前に迫っていたのです。すでに自由貿易は再許可されており、イギリス、フランス、アメリカ、オランダと改税約書調印、さらにベルギー、イタリア、デンマークとの間で新たに通商条約が結ばれていました。日本の国内情勢をよそに、門戸は世界に向かって大きく開け放たれていたのです。
 だれもが新しい時代の到来を予感しました。
 しかし、その新しい時代は、祖国と民族にとって大きな試練になることを、経彦の物事を賢く見きわめる力はいち早く見抜いていました。(幕府は政権を天皇に返上し、日本は天皇を中心とする本来の姿に戻るだろう。それは喜ばしいことだが、尊皇攘夷の思想は「尊皇」だけが残って「攘夷」は歴史の流れの中で開国へと変わってしまった。開国は異文化が思うままに入ってくることであって、もし日本人の心が外教に惑わされるようなことがあれば、それは神国日本の天皇制――すなわち日本民族にとって大変な問題となるだろう)
 危惧(危ぶみ恐れること)です。
 予見(事前に見通すこと)です。
 そして、それを防ぐにはどうすればいいか。
 経彦の下した結論は「国学」でした。国学というのは、前に述べたように日本古代の文学・言語・制度・習俗などを研究し、古代社会に日本文化の固有性をさぐる学問のことで、
「天皇家の祖先を天照大神とする日本民族の理論体系」です。
 すなわち日本民族の起源をはっきり示す原点であり、思想であり、外から入って来た文化の影響を受ける以前の古神道を復元しようとする復古神道を形成する下地となるのですが、
(諸外国との交流を歴史の必然とするなら、それに備えて努力して国学の研究を深めることこそ急いですべき仕事である)と経彦は考えたのです。
 皇国思想を抱いた「神医」は、身体的な治癒にとどまらず、心の治癒である宗教実践家へと転向していくのでした。
 広く世間の人々を啓蒙するために、経彦は書物を書くことを決意します。

経彦の悪評

 問題は、そのための時間をいかにしてつくり出すかということでした。
 連日、玄関から街道までつづく長蛇の列を見ては暗い気持になります。
 病魔に苦しむ人々を助けるのは結構です。
 いや、助けてあげたいと心の底から思います。
 しかし、大きな視野に立って、自分の使命を考えるとき、
(こうしてすべての時間を治療に捧げる行為は、一人を救って万人を見殺しにするに等しいことではないか)
 というジレンマに苦しみました。
 万人を救う――とは、何とも強烈な自負ではありませんか。自信ではありませんか。洋の東西を問わず、歴史に名を記す英雄や傑物、偉人に共通するのは、
「天から選ばれた人間である」という、この強烈な自負ではないでしょうか。
 だから、楽な道を選んでしまう凡人と違って、どんな困難にも思い切って立ち向かっていけるのでしょう。
 書物を書くことを決意してから一ヵ月が過ぎた二月初旬、経彦は筆一本に没頭するという覚悟を決めました。粉雪に白く薄化粧をした先祖の墓に詣でると、その決意を告げ、しかしそれは病人を直すことのできない断腸の思いであることを告白して、静かに涙を流すのでした。