平成14年6月(2002−6)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 治療費は決まっていません。志で十分でした。
 患者が貧しければ、治療費をもらうどころか、寝床の下にそっとお金を入れて帰ります。経彦とは、そういう人だったのです。
 経彦は治療にあたって、必ず「神」の話をしました。
「病は心から生ずるものです。そしてその心は、私たちの肉体に現れます。言い換えるなら、病は心の善悪によるということなのです。心を正しくお持ちなさい。そうすれば病に犯されることもないのです」
 そして、心を正しく持つには「神理」によって心を磨くことだ、と説くのでした。
 皇国医道は、経彦にとっては神慮――すなわち神の意志に添った活動でしたが、
(しかし、これでは天下に大活動はできない)
 というジレンマに苦しんでいました。
 一人ひとりの患者を救うことも大切ですが、徳力を出て、もっと広く、人間そのものを救いたいという情熱がありました。欲求がありました。しかし、健康を回復したとはいえ、老いた母のことを思うと、家を離れることなどできませんでした。
 この間にも歴史の歯車は休むことなく、急ピッチで回り続けていました。
 文久二年(一八六二年)九月、朝廷は攘夷を決定しました。「外敵を打ち払え」と日本全土に詔を発したのです。生麦事件、イギリス公使館焼き打ち、そして翌年五月になって長州藩はアメリカ、フランス、オランダの艦船を下関で砲撃。六月には高杉晋作が奇兵隊を組織しました。
(出たい、徳力を出たい、諸国を歩いてみたい……)
 開国と攘夷をめぐって騒然たる世相の中で、経彦はひとり焦燥(あせって、いらだつこと)の時を過ごすのでした。

 母の死

 文久年間は三年で終わり、年号は「元治」をはさんで「慶応」へと改まります。しかし、そのわずか一年間にすぎない元治年間(一八六四年)は、アメリカ、フランス、オランダ、それにイギリスが加わった四カ国連合艦隊十七隻による下関砲撃をはじめ、新選組の池田屋事件、さらに蛤御門の変で長州藩が敗走して徳川幕府による第一次長州征討が行われるなど、大きな事件が相次いで起こっています。
 攘夷の詔は下ったものの、蛤御門の変で敗走した長州藩にさらに追い打ちをかけるような四カ国連合艦隊による下関砲撃は、攘夷論者に衝撃を与え、尊皇派は一時、勢力を失いました。
 しかし、その一方、薩摩藩では西郷隆盛、大久保利通ら下級武士が、また長州藩でも再び奇兵隊が実権を握り、イギリスと手を結んで倒幕のための洋式装備を急ぐなど、「明治維新」は天王山(勝負の分かれめ)を迎えつつありました。
 明けて慶応元年(一八六五年)三月十八日、師・西田直養が亡くなりました。「大和魂の男子」と吉田松陰に評された第一級の人物は、大往生で七十三歳の生涯を閉じました。よくも悪くも「明治」を近代日本の幕開けとするなら、直養は、まさに開演ベルが鳴り、新しい時代の幕が上がろうとする直前に舞台を去ったことになります。
 しかし、国学者の直養にとって、「脱亜入欧、西欧万歳」を叫んで文明開化にわく無節操な散切り頭を見ないですんだことは、あるいは幸せであったかもしれません。
 経彦は二年後の慶応三年になって、直養を幸彦神として祭り、認可を得て神社とし、師をしのんで毎年春秋のお祭りを執り行い、歌会を神前で催しました。これは、師弟とはどういうものかを示すエピソードとして後々まで語りつがれることになり、その歌会は現在も続いています(幸彦社献歌)。
 さて、運命の転機は、直養の死から一ヵ月がたった四月十七日に訪れます。
 母、佐陀子が亡くなったのです。
 死を予期していたのか、その二週間ほど前に、佐陀子は、
「どうしてもお山に登って桜が見たい」
 と言い張って、経彦を困らせています。
 年齢と、体調と、足腰の萎えからみて、山に登るのは大変なことでしたが、珍しく強情な母に、経彦も何か感じるところがあったのでしょう。佐陀子の手を引き、背負い、細川幽斎が「小嵐山」と呼んで愛した徳力山に登っています。
 佐陀子は、満開の桜をまぶしそうに仰ぎながら、
「時節が変わろうと、人が生きようと死のうと、春になると桜は咲く……。悲しいことですね」
 と、つぶやきました。
 このときの佐陀子の心中の思いは分かりません。桜の意志と関わりなく、春になったら否応なく花を咲かせてしまう性に、ものの哀れを見たのでしょうか。
 経彦が母の死をはっきりと予感したのは、このときでした。
 桜を仰ぐ端正な母の、透き通るように美しい横顔を見つめながら、
(ふるさとに別れを告げにきたのか)
 という思いが、不意にこみあげてきたのでした。