平成14年2月(2002−2)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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 「母を選べ――」
 神は決断を下しました。
「経彦、たしかにいまは日本にとって天下の非常事である。だが、天下に人材はたくさんいる。おまえは、いまは母の看病に専念するがよかろう。これこそ忠孝両全の道であり、その後、おのずと進むべき道が見えてくる」
 と、説きました。
 神のこの言葉を感じて会得するや、経彦は母の看病に専念することを決心するのでした。
 経彦の性格からして、いったん決意すると、それこそトコトンやります。母につきっきりで、いっさいの外出を中止しました。長崎はおろか、小倉城下にさえ出かけることはありませんでした。
 昼は母の看病、そして夜は勉学に励みました。
 小柄な身体の一体どこにそれだけのパワーがあるのか、朝まで続く大きく明るい読書の声に、はじめは感心していた村人たちも、一年がたち、二年がたつうちに、
「和子は学問に狂うてしもうた」
 と、うわさしました。
 神童と呼ばれ、父親の眼病を治すなど尊敬された経彦が、陰口をたたかれるのですから、どれほどの「学問狂い」であったか想像がつくでしょう。
 しかし経彦は、世間のうわさなど気にすることもなく、
「舜の犬は尭に吠え、醜婦は鏡をうらむもの」
 と、落ち着きはらっていました。
 ただ、朗読の声は母の安眠のさまたげになってしまいます。経彦は庭のすみに粗末な小屋を建て、そこで勉学に励むのでした。
 安政五年(一八五八年)六月。大老・井伊直弼はアメリカ総領事ハリスの強硬な要求に負け、朝廷の許可(勅許)を得ないまま、日米修好通商条約を締結しました。独断でやったことです。非難が沸騰し、国内は騒然となりました。
 これに対し、井伊直弼は強制的な権力をもって反対派の弾圧に乗り出しました。徳川斉昭・慶篤親子、松平慶永らを処罰、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内ら五十四人の志士を逮捕、百人が処罰されました。世に名高い「安政の大獄」です。
 九州の一隅にいて、経彦の心は騒ぎました。
 ことに、経彦の師である西田直養を評して、
「大和魂の男子と察せられ候」
 と、その愛国心をたたえた吉田松陰の刑死は、経彦の心を激しく揺さぶりました。
(日本の行く末を案じ、志ある人物は、一命を賭して戦っているのだ。いずれ自分も……)
 と、はやる気持ちをぐっと腹に沈めて、経彦は黙々と本の朗読を続けるのでした。
 母佐陀子が慶応元年(一八六五年)に昇天するまで、これから経彦は実に十年の間、活躍の機会をじっと待つことになります。

古医学の書

「なあお政、奥さまが伏せって何年になるかな?」
 次郎吉が、夕食のあとで番茶をすすりながら言いました。
「三年……、いや四年かもしれないね」
 女房のお政がため息をつきます。
 経彦の家には下男、下女がおり、門人も多数出入りしていましたが、気心の知れた次郎吉夫婦がなにくれとなく世話をやいていました。
「やっぱり不治の病かしらね」
「ウーム」
「和子も、経勝先生の眼を治したときみたいにできないもんかね。本ばかり読んだって、奥さん治りゃしないよ」
「バ、バカ! めったなことを言うんじゃない」
「だって、あんた、三年だよ」
 お政は半べそをかいていました。
 病気も長患いとなると、世話をする者はゴールの見えないマラソンを走らされるようなもので、神経がまいってきます。お政を非難することはできないでしょう。お政にしても、たまには別府の温泉にでも出かけたいところですが、佐陀子がこの調子では、それもはばかられました。先代の恩義に報いるためとはいえ、その献身ぶりは凡人には到底まねできないことでした。
 しかし、それにしても経彦です。
 なぜ、祖神さまにおすがりして母親を治そうとしないのでしょうか。お政ならずとも首をかしげたくなりますが、結論から言うと、
 ――時期が来ない
 のです。
 なんの時期か、それは経彦にもわかりません。
(祖神さまが、なんらかの指示をしてくださるはずだ)
 と、経彦はひたすら信じ、待つよりほかありませんでした。