平成14年1月(2002−1)

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  「世のため、人のため」
    経  彦 さ ま 伝  
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  身の回りの世話は下男、下女がみてくれるし、それなりの財も夫の経勝が残してくれているので生活に不自由はありませんでしたが、夫が先立ち、子供が成人したいま、佐陀子は生きる目的を見失っていました。
 ところで、末期ガンを宣告され、あと数ヵ月の命とされる患者が、五年、十年と生き延びることがあります。
「この状態では必ず死ぬ」
 と断定する医学的根拠があるわけですが、その医学の「絶対尺度」を裏切って生き続ける患者が現実には少なからずいます。
 なぜでしょう。
 ある医療機関は、末期ガンを宣告された患者を追跡調査し、長生きした人とそうでない人との違いを解明しようとしました。ガン治療のカギが隠されているのではないか、というわけです。
 その結果、
「長生きしている患者は、ボランティアなど社会的活動をしている人に多い」
 ということがわかりました。
 生きがい――すなわち「私は、この世に必要とされているんだ」という生への強烈な自己主張が、消えかかった命の火さえも再燃させる、ということです。
 このことを思うとき、
「病は気から」
 という使い古された言葉が、大きな重みをもって迫ってくるでしょう。
 のちに経彦は皇国医道を確立するのですが、末期ガンにおける「心の持ち方と治癒(病気が治ること)」は、神道による「加持祈祷と治癒」の解明に一条の光を当てるものかもしれません。
 さて、佐陀子のことに話は戻ります。
 生きがいが命の火を再燃させるなら、生きがいのなくなった佐陀子が病に倒れるのは道理かもしれません。春のやわらかい日ざしさえもこわがり、一日中、障子を閉めきった部屋で寝ているのです。食事ものどを通らず、衰弱は日を追って激しくなっていきました。
 母のこの症状に、経彦は胸を痛めました。病の原因が、寂しさからきているものであることは、だれよりも承知しています。そばについて看病することが一番の親孝行であることも、十分にわかっています。しかし自分には、神道再興という崇高な使命があります。そのためには広く諸国をめぐって見聞を広め、碩学の大家と意見を交え、研鑽を積まなければなりません。
 看病と使命。
 この二つの板ばさみでした。

騒然たる世相

 このころ経彦はひんぱんに長崎に通っていました。
 長崎は鎖国日本が西洋に開いた唯一の窓口であり、押しよせる開国の波のなかで、日本の行く末を見極めるには、長崎をほかにおいてありませんでした。一度の長崎行きで、三カ月から半年は滞在していましたが、母が病に伏せってからは、月に一度は必ず帰って話し相手をつとめることを、自分に課していました。
 月に一度とはいっても、長崎から徳力までは約七十里あります。当時、ふつうに旅して一週間はかかるこの行程を、経彦は一泊二日で駆け抜けました。文字どおり、小走りに駆けたのです。
 経彦の健脚は有名です。
 神理教大教正であった藤江伊佐彦翁は晩年、教祖経彦について、こんなふうに語っています。
「再三、ご教祖さまのお供をさせていただきましたが、ご教祖さまの早足についていこうと、私も一所懸命に駆けるのですが、それでも遅れてしまいます。いや私だけでなく、六尺近い大男の倉富熊臣教正でさえそうなのです。倉富熊臣教正と二人して、不思議なことがあるものだと話し合ったものです」
 教長経彦は途中で足を止め、そんな二人を振り返りながら、
「神の御足を親から授かりながら、気の毒なことじゃて」
 と、笑ったといいます。
 それほどの健脚でした。
 経彦は、こうして長崎と徳力とを往復しながら、母親の話し相手をつとめました。
 しかし、佐陀子はそれでも寂しがりました。次第に経彦の長崎行きそのものをいやがるようになっていくのです。
「行くのかい?」
「すぐに帰ってくるから」
「どうしても行かなくっちゃならないのかい?長崎がそんなにいいのかい?」
 と、悲しい顔で訴えるのでした。
 病が人間をわがままにさせるのか、あるいは年齢がそうさせるのか。
 これには経彦も参りました。孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならず――いつの時代も孝行息子は「忠」と「孝」の板ばさみになるのでした。
 明日は長崎にたつという深夜になって、経彦はいたたまれず、神前に平伏して神の判断を仰ぎました。母の看病をとるべきか、大志・大望をとるべきか――生身の人間には天秤にかけられない難しい選択でした。